父は戦前、海軍士官であった。終戦に近い頃、木製のモーターボートに爆弾を積んで敵艦に突っ込む「震洋」という特攻兵器の作戦の部隊長をしていた。
ある日、この作戦司令官に、この特攻兵器の無謀性を訴える論文のようなものを提出したらしい。震洋のエンジンは非力で、敵艦よりも速度が遅い。体当たり攻撃を行っても、敵艦に到達することは不可能であり、そもそも到達以前に敵に発見され、木製ボートは簡単に破壊されることが確実である、と進言した。
ある日、司令官に呼び出された。司令官はこう言ったという。
「お前の言うことはよく分かる」
部隊をはずされた父は、小笠原、硫黄島方面の補給ルートの護衛任務を命ぜられた。終戦間際のこの任務は、特攻作戦同様の危険が伴う。制空権も制海権も既に奪われ、海域には、敵の潜水艦が多数あり、連日多くの被害を出し続けた。
横須賀港を出港する度に、この港を見るのは今日が最期と思ったという。
その頃の話として聞いた出来事。乗船していた艦が、米軍潜水艦から魚雷攻撃を受けた。魚雷は速度が速いので、後方から攻撃があった場合、全速力で直線に逃げなくてはならない。素人考えでは、左右に旋回すれば簡単に回避できると感じる。しかし、船は左右に舵を切ると速度が急激に落ちるので、その間に魚雷に追いつかれるのだという。
父は全速前進を指示し、双眼鏡で魚雷を見ていた。艦より数倍の速さで真後ろから追尾してくる。接触寸前というところで、魚雷が突然推力を失って海中深く消えてしまったのだという。スクリューバッテリーがなくなり推力がなくなったらしい。
またある日、敵の戦闘機に急襲されたことがあったという。
「機銃掃射していたが、体当たりしそうな程近づき発砲して来た。戦闘機に乗っていた米兵の顔が良く見えた。人の運命は不思議なものだ。ずっと船に乗っていてもぜんぜん弾があたらない奴もいる。ところが、昨日召集令状で狩り出された初老の兵士があっさり弾に当たって死んでしまった。」
父は運のいい人間であった。仲間うちで『毛利は死んだ』と思われていたことがあったという。任務から戻り港を歩いていると、「貴様、生きていたのか」と言って驚かれた。そういうことが、一度や二度ではなかったという。
このように、荒ぶる海を生き抜いてきた父親の線上に自分がいる。私とは何か。
人は多くの奇跡の上に存在している。多くの屍の上を踏み越えて生きている。それは誰しも同じではないだろうか。
一番古い父との記憶。部屋の中で、父が作った戦艦の模型を自分が見ている時のものだ。夜で電球の光がその戦艦をうしろから照らし、丁寧に作られた艦橋や、煙突のシルエットが浮かび上がっている。
「どうだ。よくできているだろう。」
父はそんなことを言って、自慢気にその船の模型を私に見せていた。
自分の名前には『洋』の字がある。船の名前をイメージして命名したらしい。
戦後、大学を受験し直し、医師になった父。自分は医者の息子ではあったけれど、父を医師であると感じたことがあまりない。彼は軍人の精神を失わず戦後を生きたように感じる。
(写真は震洋とその関連記事)



