霊夢。平安時代頃まで、日本の天皇、皇族、貴族、神官、僧侶から農民、漁民にいたるまで、それを見たことで、政治的判断をしたり、村人や神官僧侶が見れば、その内容に従って神社仏閣を建立したりした。今でも神社仏閣などへ行き、由緒書きなどを見ると、そのような奇事が起こり建立された経緯の記載を目にすることがある。
現代に生きる我々にとって、はなはだ非科学的な話で、夢で政治が動いたり、神社仏閣を建立するなどあり得ない話だと思う。しかし人間は自分達が思っているほど変わっておらず、科学的などと口では言っていても結果、知らず知らずに、自己の意識を超えたところで動かされ、判断しているのではないかと思うことも多い。
実は20年程前、1度明確にそれと分かる霊夢を見たことがある。
通常の夢と霊夢の違いとは?
通常の夢は、頭の中で映像化され、風景も登場人物も自分の意識や記憶の中から紡ぎだされ、夢全体が混然一体となっている。明らかに脳の一部で展開されていることが、目が醒めた後自覚できるはずである。もちろん深い意識や記憶に基づく場合もあれば、昨日の記憶が元になっている場合もある。
霊夢は、全く次元が違う。自分の意識が完全に肉体から離れ、起きている時と何ら変わらない状態の自己意識が、次元の違う異空間に飛ばされる。そこで見る風景や人物は自分とは全く別物である。それは起きている時に街を散策している時と同じである。場合によってはそれ以上に明瞭なこともある。
部分的に通常の夢に一瞬霊夢が混じる場合もあるし、通常の夢から霊夢に飛ぶ場合もある。
私が見た霊夢。
気がつくと、和風建築の階段を下りていた。階段を踏みしめる時、多少の冷やかさが直に体に伝わってくる。その異常なリアルさが通常の夢ではないことに気付かされた。階段の下には、大きな板の間がある。階段も板の間も焦げ茶色に見えた。
板の間の向かって右側の真ん中あたりに、私の父親が和装で正座して座っている。
「オヤジ。何をそんな神妙な顔して座っているんだよ。」
父親は顔色ひとつ変えない。自分は普段の自分のままなので、目の前の光景が冗談のようでもあり、茶化されているようにも感じる。可笑しくなり、笑いそうにもなった。階段を降り切り、板の間を踏みしめた瞬間。父親が、手に持つ扇子を板の間に、パンパーンと、部屋に響き渡るような音で数度打ちつけた。
「そーれ来た来た。神が来た。」
と謡い調で、非常に明瞭で大きな声を上げた。
オヤジは何を訳の分からないことを言っているのか。その神妙さがやはり可笑しかったが、ふと見ると、私の目の前に老人が座っている。誰だか分からない。どうやらこの老人が「神」なのか。そう思う間もなく、老人が和装で和結髪の女性に変化した。それほど高貴な人物には見えなかった。その女性顔の人物が、非常に力強く太い大音声で言い放った。その声は何故か男性の声であった。
「ワレはタカクラテンノウである。」
何故か、私は急に腹が立ち、言い放った。
「何を下らないことを言っているのだ。ただの女じゃないか!何が天皇だ!ふざけるな!」
そういうと、父親はますます落ち着き放った表情で言った。
「そうではない。神には二つの流れがあるのである。この者は、そのもう一つの流れのものである。」
その言葉を聞くと、不思議なことに私は心から得心した。そうだったのか、と。しかし、その非常に納得した理由は何なのか分からない。分からないのに心から得心したのである。
そう感じる間もなく、その人物と自分の目がはっきりと合った。その瞬間。女の声で
「お前はやさしい。しかし憎いいいいいいいいいいいいい。」
憎いの、いの部分が長々と続き、相手の目からものすごいエネルギーが私の目を通して脳髄にまで至り、ビリビリと貫いた。電流のようであった。
「あっーー!」
目が醒めた。よく映画やドラマで夢にうなされた主人公が目を醒ました時のような表情だったはずである。起きた後も、その電流の感覚がしばらく残っていた。
「タカクラテンノウ」
そんな天皇いたかな。その名前の人物のことは全く知らなかった。今ならすぐにネットで検索するのだが、当時はまだそういうこともできず、調べるのであれば、図書館に行って調べる必要がある。しかし、そんな機会もなく、数か月が過ぎたある時。京都へ旅行の際、東山の山上へ向かう道を車で走っていた時、目の前に“高倉天皇陵”という文字が目に入った。
「高倉天皇。そんな天皇がいたんだ。」
すぐさま、夢のことを思い出した。車を降り、その比較的こじんまりとした陵墓を拝見したのである。
(つづく)
(高倉天皇)wikiより
政界の実力者・平清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、二条天皇の死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)をわずか3歳で退位させ、天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷き、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲った。治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、自ら院政を開始するが間もなく病に倒れた。後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説も出ている。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。
(写真 google検索にて―高倉天皇図、後清閑寺陵(高倉天皇陵)、系図)



