
旧約聖書『出エジプト記』第三章。エジプト人からの奴隷状態にあったモーセの一族を見たユダヤの神は、ある時モーセの面前に現れた。
神はモーセに言われた、
「わたしは有って有る者」
また言われた、
「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」(旧約聖書『出エジプト記』第三章より)
インドの覚者ラマナマハルシは、彼自身「わたしは有る」と言い、すべての者に、同じようであれと説いた。それにはおよそ二つの方法がある。ひとつは真我探求であり、いまひとつには、明け渡し(神への)であると。
神道には鎮魂帰神という考え方がある。自身と神との一体化を行う方法であるという。ラマナマハルシほど直接的ではないが、ユダヤ教的な明け渡し(神への完全なる帰依を求める)との中間的な思想であるように思える。
一般的に日本人は宗教心が薄いと言われる。確かに、中東、インドの人々や、西洋や東南アジア地域の人々に比して宗教的なこだわりは薄く、信仰やそれに類する思想的な頑さは少なく、不明瞭でもある。
一般的に日本人は思考的ではなく、自然に寄り添う意識が強いとも言えるかもしれない。しかしそれだけなのか。
宗教的な、あるいは通俗的な意味での宗教心や信仰心やそれに類する思想なりを意図的に取り除いてもなお、本来的な意味での「宗教的な意識」が残っている人々というのは、世界にあまた民族、国家はあれど、日本人はその意味において特殊な感覚を持っているように思える。何故か。
明確な教えがあるわけではないのに損なわれない社会。それは島国だからなのか。では他の島国も同じようなものなのか。 そこを解き明かし、その基礎的な仕組みを世界に広げてゆくことは、「宗教後」の、これからの世界にとり必要なことではないのか。
日本の時代になる、という人がいる。しかし仮にそうなるとして、そうなるべき明確な理由を示した人はいまだいないように思われる。 (写真:狭野神社 – 宮崎県西諸県郡高原町)
