ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は共に旧約聖書を聖典としている。ユダヤ教では、終わりの日に現れるという救世主は未だ出現していないとし、キリスト教はイエスキリストをもって救世主とし、イスラム教はマホメットを救世主であるとする信仰の形態である。しかし、それは全て旧約聖書に預言されている記述に基づいている。
創世記によれば、ユダヤ人もアラブ人も元は同じ血脈から派生した民族である。
日本的に表現すれば、ユダヤ人は清和源氏で、アラブ人は桓武平氏みたいなものだ。源平が相争い憎しみ会うのと同じように、ユダヤ人もアラブ人も激しく憎しみ争っている。
世界三大宗教を、上記三宗教だという説もあるが、基本的には同根の宗教であるといえよう。
旧約聖書に記載されている、世の終わりの時、追いやられた者たちと、失われたものたちが集められ、ひとつになるのだという。失われた者たちとは、失われた十支族のことである。
死海文書は現存する最古のユダヤ経典群であるが、旧約聖書に記載されていない文書が何点か存在している。その中のひとつ、宗規要覧・会衆規定には、世の終わりの時に集められた者たちの中から二人のメシアが現れると記載されている。「アロンのメシア」「イスラエルのメシア」の二人。
一説によれば、アロンは、イスラエル国家を建設した人々であり、イスラエルとは、失われた十支族のことだという。
一般的にメシアは、宗教的な救世主のことが考えられるが、ヘブライ語の語源は「王」を意味する言葉であるという。メシアという言葉が殊更に飛躍した存在と考えられるようになったのは時代の経過とともに、脚色されていったからなのかもしれない。
本来の意味は、失われ、土地を追われたユダヤ人を再び集め、統一する王の存在を語ったものであるのかもしれない。
聖書が語る千年王国とは何か?それが成就した時、聖書はその役割を終えるのか?「教えと律法の時代」の終焉。「教えと律法」に変わるもの。
基本的に宗教とは教えや戒律に依拠している。しかし神道には教えも戒律もない。厳密には、神道は宗教という枠組みには入らないものだとも思える。神道には仕組みがあるだけである。
教えや戒律は人間の魂を拘束し、牢獄に打ち込まれたも同然の状況を生み出してきた。羽交い締めにされた人間の魂はそれがなければ、殺人、盗み、強姦を平気で行う獣に堕してしまうのか。いまだそういうところもあろうが、現代人にとって、教えや戒律は、魂の抑圧製造器に過ぎなくなってきているのではないのか。
しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、これら元来の宗教が我々が生きている間にこの世から消滅することはないだろう。それぞれに重要な真理が含まれている限りにおいて。
さらに言えば、これまでの宗教は全て、神や仏と個人とを繋ぎ、個人の魂の向上を目指すセオリーのようなものだ。あるセオリーの下での個人の集合体が宗教団体ということになる。いずれにしても今ある宗教は全て個人と神(あるいは仏)という単位を基本としている。
一方、神道では三柱をお祭りすることを良しとしている。三柱とは、中心に天照大神。左右にそれぞれ自分の先祖に深い関わりのある神、そして自分がいま生活している土地に関わる神である。大神、先祖神、土地神。三位一体の祀事。日本が世界でも稀に見るほど規律が保たれ、平和でかつ世界に突出した力と影響力を持ち得たのはこの「三位一体」の仕組みを保ってきたからに他ならないと私は確信する。
個人と神とを繋ぐだけでは社会は安定しない。キリスト教徒が数億人いたとしても、個人と神とを繋ぐ魂の集合体に過ぎない。それは砂粒の集まりと同じである。点がいくつ集まっても面にはならない。それは、砂漠の砂粒のようなものであり、嵐が吹けば、サラサラと何処へともなく消えてゆく。重厚な土地を形成することもなく、豊かな実りも期待できない。
それはあたかも、ユダヤ、キリスト、イスラムの教えを生み出した広大な砂漠地帯のように。 人間が、大神、先祖に関わる四次元的存在、土地に関わる三次元的存在とが繋がる仕組。神道だけがもつ仕組。教えを持たない神道の仕組は人を魂の囚われ人とすることもない。どのような教えを信じるものにもこの仕組みは適用可能である。
日本人の柔軟性はこのような神道の仕組みと密接に関わっている。少しでも意見が合わないと、激しい争いや殺し合いを始める宗教との決定的な違いであろう。 魚座の時代から水瓶座の時代への移行とは、人間社会の構成要素が点から面へ移行することを意味する。
そしてそれはこの国から、神道から始められるべきである。西洋文明と東洋文明を習合すべき者。西洋キリスト教文明から文明を引き継ぐべき資格を有する者。この星を見渡した時、それはこの国以外見当たらない。 (写真:クムラン遺跡と死海)

