19世紀末、西洋人による大航海時代から、植民地帝国主義により、世界史上初めて世界五大陸を、人類が自らの版図に見据えることができる位置に立ったその絶頂期に、日本はようやく世界史の表舞台に登場し始めた。しかし、それまでの日本史の様相が世界史の中でみるべき価値がなかったわけではない。
アジアでは、律令専制政治又は絶対君主制の統治形態が、中国を中心として近世まで続いていたが、日本においては平安時代頃には既に律令専制の形態が崩壊し始め、鎌倉時代には完全に西洋型封建制度へ移行した。世界史上、西洋型の封建制度が発達したのは、西ヨーロッパと日本のみである。
西洋型封建制度とは、国王、領主、家臣の主従関係を基調とした統治形態であり、日本においては、天皇、領主、家臣の主従関係がこれにあたる。
中国ロシアでは、共産革命が起こるまで、専制主義、絶対君主制の、支配者と被支配者の二極構造による政治体制が引き続き、共産化されて以降も実質的な構造を大きく変化させることはできていない。絶対権力者である国王または皇帝と、それを支える官僚と、農奴などの生産者によって成り立つ社会である。
資本家と労働者という絶対的な対立構造からの、それを覆すための革命というマルクス主義の視点は、中国やロシアにおける歴史的政治体制下においては容易に理解しうる思想であり、中国の易姓革命の思想とも通じるものがある。
この両国で共産革命が実現したのには、歴史的必然性があったのかもしれない。一方で、日本では共産革命が起きる下地そのものがなかったというべきであろう。共産党や社会党の政治家が村の鎮守のお祭りに参加するような国に共産革命が起きる必然性は限りなく低いと見て良いであろう。
封建制度が西ヨーロッパ同様発達していた日本が、幕末からの大変動期において、西洋の立憲君主制を即座に導入でき、短期間で西洋的近代社会を実現できたのには、日本が世界史上唯一、西洋と類似の政治制度を発展させてきたことと深い関連性がある。西洋の黄昏時に日本はそれを「引き継ぐ」形で勃興を始めたのである。(つづく)
(写真: 源頼朝 wikiより)

