キリスト教が誕生して2000年が過ぎた。この2000年、人間の霊的精神的な支柱は信仰を伴う組織宗教にあった。人々は信仰によって、人間社会の中で社会化された存在として生きるための最低限の生活規範を与えられた。今でも厳格な信仰がなければ、規律が失われ社会が大混乱に陥ってしまう所もある。宗教の本来的な意義は、人間の魂をより純化させるための手法であり方法であるが、現代にいたるまで、多くの場合、人間を社会化させるための「装置」であり「生活共同体」としての役割を担うにとどまっている。
宗教的な教えや戒律によって、人間は「人間らしく生きるため」の社会的規律を与えられる一方で、自律的、自立的な行動や思考を奪われてしまう問題も生じた。信仰とは「得体の知れないものへの憧れと畏怖」である。実体は見えないが、人間をはるかに超えた存在から受け入れられるためには、「これをしてはいけない」「あれをしなくてはいけない」と言われる。守らなければ恐ろしいことがあなたの身の上に降りかかるだろう、という「言葉の約束」である。
この2000年以上の間、数十世代に渡り蓄積されてきた人間の意識の深層からくる、このような「宗教的な抑圧」は容易に解くことができない。先進国とされる地域に暮らす現代人の多くは、「信仰的抑制」からかなりの程度解放されているとはいえ、実際個々人が意識している以上に大きな抑制力に支配されている部分がまだまだ多いと言えるだろう。
そのプロセスには地域格差が生じるかもしれないが、今後100-200年くらいの時間をかけ、組織宗教は衰退してゆくだろう。宗教的な本義は人間にとって必要なものであり続けるが、それを受け継ぐ形態は、より個人的なものに変化し、抑圧的、集団主義的信仰形態から、より自然体の生活スタイルの一部として吸収されていくだろう。
ドイツ人の在日禅僧が、ある書物の中で、「日本人に宗教はいらない」と語っている。世界的、歴史的に見ても日本人ほど宗教に無関心な国民は少ない。にもかかわらず、日本人の個々人とその生活感の中には、「禅」の思想が根付いている、と語っている。海外から来る旅行者や帰国日本人の多くがしばしば以下のように思うことがあるという話を個人的にも聞いたことがある。
「日本人を世界遺産にすべきだ」
何の強制力もないのに、自主的に規律が守られている。コンビニの店員にも、「道」があり、与えられた時間を「自己修行」にあてる。欧米では考えられないことである。「たかがレジ打ちだよ。何か文句あるかよ」欧米では多くの場合そういう顔をしている。
東日本大震災の際の被災者の行動にも世界は驚いた。震災直後、現地レポートをしていた女性が、米国内のスタジオのキャスター達に、
「現地は食事の配給にも粛々と整列し、略奪も行われていません」
と伝えた。すると、キャスター達は、
「そんな馬鹿な。あり得ない」
と、お前は何を馬鹿なこと言っているんだという風情で、手を横に振りながらへらへら笑った。するとレポーターは、
「本当なんです!しかも被災者は私に、お疲れ様と言っておにぎりをくれたのです。」
とやや語気を荒げた。すると、キャスター達は驚きのあまり、
「本当なのか?」
と口を開けたまま、ゆっくりと首を横に振った。そして、数秒間の沈黙が流れた。
その後、米国のメディアはこのように伝えた。「第二次世界大戦の敗戦により、日本人らしさや、日本の古き文化伝統は失われたと思っていた我々は、考え方を変える必要に迫られている。」と。
私は、禅の教えが日本人をそうさせたとは思わない。禅の教えが日本人を変えたのであれば、インド人や中国人も同じように変わっていなければならない。インドは宗教にのめり込みすぎ、中国は無宗教にのめり込みすぎている現状を思えば、それは間違いであることは明らかである。
私はこれまで、何度も語ってきたように、日本人を日本人たらしめているのは神道であると確信している。仮に禅や中国思想や西洋文明が日本人の心の形成や生活スタイルに影響を与えているとしても、それは、神道を基盤として成り立つ魂の構造の上にあるのである。
もちろん、日本人に何の問題もないわけではない。諸外国において宗教的な抑圧や拘束力が強いところが多い一方で、日本人の場合、人間社会内における抑圧や拘束力が強く、個の自立性や自主性が弱い。私はこの問題を解決できれば世界最強になると思っている。それについては後日語る。
世界が今後「信仰」から意識が遠のくに従い、なおかつ最善の方向へ導かれるとすれば、世界は「日本化」の道を辿ることになるだろう。そして、その中核に神道の仕組みが深く関わることになる。このような意味で私は神道を「宗教」ではないと語ってきたのである。 (了

