朝鮮神話について、韓国人が記述した文献は参考になるが、類似性を指摘する記述の大部分が済州島に伝わるものであった。彼らはこれを韓国文化が日本に、としつこいばかりに強調する。
しかし、済州島の文化は明らかに汎太平洋文明の一部である。朝鮮半島には存在しないが、済州島には神道があり、日本神道との極めて近親的な類似性が文化の中に存在している。
済州島は、日本との関係性で言えば、沖縄との関係に非常に近い。しかし、地理的に極めて朝鮮半島に近いため、長年に渡り、半島文化の影響を非常に色濃く受けてきた。
繰り返し言うが、朝鮮半島には、日本の神道に類似するカルチャーは存在しない。
しかし、日本神話の記述内には朝鮮王朝に関する起源神話に類似する歴史表現が存在するようであり、ここは現在検証中である。高句麗と百済の文化とは、飛鳥時代以降に大きな影響を受けていることは違いない。
ちなみに、高句麗は朝鮮半島ではなく、満州にいた遊牧民の末裔により建国されたことを、日本人は明記すべきであろう。
以下は、wikiよりの済州島に関する古代史の情報である。
明らかに半島とは別の文化圏であり、戦後李承晩政権によって、非常な迫害を受けた際、多くの済州島住民が日本へ移住した。大阪等に現在も居住する多くの在日朝鮮人は、そのほとんが済州島出身者であることを忘れてはならない。
下記に、李承晩政権の迫害に関するwiki情報も記載する。
韓国人の記述する自国史及び日本との関係史に関しては細心の注意を払いながら解読する必要があることをお伝えしたい。
以下引用が非常に長いが、日本人である以上この歴史は充分に理解しておく必要があるであろう。
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耽羅国三姓神話
「宗像三女神」および「高麗史」も参照
三姓穴。
済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島の「檀君神話」とは違った耽羅民族の独自の建国神話があり、『高麗史』や『世宗実録』におよそ次のような内容で表されている。
瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、未だ人の住まない太古の濟州に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人(3神が高乙那・良乙那・夫乙那と描かれるものも)が、漢拏山の北山麓の地の穴(三姓穴)から現れたのが現在の済州の人々の先祖であるという。ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた彼らは、東の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の碧浪国(日本と取る学者もいる。)から来たという紅帯紫衣の使者と美しい3人の姫と駒と馬と五穀が入っており、神人は、彼女達を妻として迎え、年齢順に住処を定めて暮らすようになった。その後神人の子孫達は、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされる。
耽羅国
詳細は「耽羅」を参照
「耽羅国発祥地」の碑。
三国志に現れる3世紀の州胡を済州島人(耽羅民族)に比定する説がある。その後耽羅国が成立し、4世紀頃には、百済に朝貢していた。
新羅の朝鮮半島統一後は、主に新羅に朝貢するようになったが、日本へも朝貢を行い、日本からも使節が派遣されるなど独自の外交を行った(遣耽羅使)。
耽羅国の言語は朝鮮民族とは言語系統が異なるものであったとするのが通説である。
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済州島四・三事件と大韓民国への編入
1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から、南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程で済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、大韓民国の民間右翼などによって虐殺された。在日韓国・朝鮮人には第二次世界大戦後、済州島四・三事件より命からがら逃れるために済州島から日本に渡って来た者も多い。
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済州島四三事件の背景
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が生じることとなった。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている。
1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、韓国本土で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した。
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを形成した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。

