先日、村上春樹氏がドイツで文学賞を受賞し、その際の記者会見で今の世界の現状を憂い、自ら望む世界への希望を語った。スピーチの内容を概略すると以下のようなものである。
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1989年のベルリンの壁崩壊から四半世紀を迎える今、世界には「民族、宗教、不寛容」といった壁がある。壁のない世界」の実現に向け、努力することが大切である。およそ25年前、ベルリンの壁は崩壊し、世界は変わった。
しかし、すぐに別の壁が現れた。アメリカの同時多発テロや紛争、中東問題など、世界中で混乱が生じており、それは人種や宗教、不寛容性、原理主義、そして欲望や不安などの壁だ。
私たちは、壁なしで生きることができないのであろうか。
「壁」が人々や異なる価値観の間を隔てる象徴であり、自分たちを守るために「他者を排除する」ものになっている。しかし、壁のない世界の実現は可能だ。
かつてジョン・レノンが歌ったように、私たちには想像する力がある。暗く暴力的な現実に直面する世界で、それは無力ではかない希望に思える。
だが、その力は、私たちが気を落とさず、歌い、語り続けることの中に見いだせる。自由な世界について語り続ける「静かで息の長い努力」が重要だ。
ベルリンの壁の崩壊が、市民の平和的なデモによって行われた。このメッセージを自分たちの壁と今この瞬間も戦っている香港の若者たちに伝えたい。
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彼は、アメリカ文学を原語で読み、その世界観を日本語で再構築して成功した小説家である。
彼の世界観は、まさにアメリカが世界の中心である現代世界の一員である、世界の多くの人々の共感を得た。
主人公の心はいつも空洞で、何か「ユートピア」のようなものを探し、彷徨い続けている。しかし、その「何か」を得ることはついにできない。その喪失感を、現代人に心地よいテイストと雰囲気で締めくくる。それはきっと、いつも「西洋的な」あるいは「アメリカ的な」何かだ。
彼が成功した最大の理由は、「自己を喪失している」ことを世界共通感覚で表現することの天才であったからだと私は思っている。現代世界は、西洋キリスト教文明に彩られているが、そこに埋没しながら、西洋キリスト教文明それ自体も喪失しつつある。彼は、西洋文明の黄昏に埋没したこの星の中にいる一個人という、世界的感覚の代弁者であるから。だから彼の文学は世界中の人々の共感を呼んだ。
彼の言う「壁のない世界」とは何か。ジョンレノンや安保闘争なような、若者の心の叫びから生み出されるものなのだろうか。
しかし、彼は多くの現代人と同じく「空洞人間」であり、多くの現代日本人と同じく「Lost Japanese」である。そして彼の紡ぎだす無国籍的な世界観は、自らの魂の空洞状態から生み出された世界観だ。
彼の文章が、もし世界にある「壁」を取り払う力を持ったとしたならば、その瞬間、自らの空洞の中に埋没し、失い、絶望してしまうかもしれない。なぜなら彼は本来「魂の抜け殻」のような存在だからだ。
彼の言うように、「不寛容」こそは、この人間社会の中で最も取り除くべき人間の悪癖である。しかし、「世界」が、西洋キリスト教文明の世界観に埋没している以上、この地球から不寛容を取り除くことは難しいであろう。
そして、その世界に埋没し、自らを見失い、彷徨い続ける村上春樹の世界観からもそれを実現することは難しい。
もし村上春樹氏が、一人の日本人として「真の魂」を自らの中に確立でき、その世界観を世に問うことができるならば、彼は世界を変え得たかもしれない。しかし、そうなると、もはやそれは「村上春樹」ではなくなってしまう。
彼の願う世界を実現できる、新たな価値観を世界に与える力があるのは、今この地球を見まわしてみた時、間違いなく、それは一つには日本であり、今一つの可能性は、北米大陸に古代から根付いており、そこから湧き出てくる価値観のいずれかであろう。その意味で日本人である村上春樹がアメリカ文学から影響を受けた小説家である、というのはそれはそれとして面白い話ではある。
日本人である私たちは、日本人としての真の魂を身につけ、それをもって世界に出ることが重要だ。それはアート、文学に限らず、その他全てのカテゴリーに関わる人々にとってもである。
日本人には、この文章の意味が理解できる人と、そうでない人がいるだろう。その違いは、世界に及ぼすことのできる力を語る上では大きな違いになると私は思う。理解できる人間の起こす行動と、そうでない人間の起こす行動では、世界に対して与えることのできる意味合いが全く違うからである。
これは、私の言葉ではない。極めて一般論としてである。
(写真 wikiより)
