宝治合戦供養
この文章を、宝治合戦に関わった全ての氏族及びその血を引く人々に捧げます。
(文章の大半は吾妻鏡を参考としながら、補足と感想を加えたものです。)
氏名は出ているもの全てを書き出そうとしています。
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この戦乱により、有力御家人の筆頭格であった三浦一族が事実上滅亡し幕府の表舞台から完全に姿を消した。これにより頼朝に従い鎌倉幕府を成立させた有力御家人の大半は北条氏を除き幕府中枢から姿を消した。北条氏による得宗専制支配体制確立への契機となった。北条時頼の権力基盤は確立された。
合戦までの経緯を辿る。
頼朝直系が三代で途絶ると、頼朝の妻北条政子は、頼朝の同母妹の曽孫にあたる、三寅(後の四代藤原頼経)を京より迎え入れて後見し、自ら尼将軍として将軍職を代行した。政子死去の同年、元服した三寅は頼経と名を改め、翌年鎌倉幕府四代将軍(征夷大将軍)となる。妻は源頼朝の子、頼家の娘であった。嘉禄2年(1226年)のことである。
それから、おおよそ二十年の後。三代執権北条泰時(政子の甥ー弟の子)が死去すると、わずか十九歳の経時が執権職を継いだ(仁治二年ー1242年)。それまでは傀儡将軍に過ぎなかった藤原頼経の下に、反北条側の勢力が結集するようになる。執権北条経時と征夷大将軍藤原頼経との確執が徐々に深まる中、経時は頼経に対し、将軍職を子の藤原頼嗣に譲らせることとなる(寛元二年ー1244年)。しかし、その後も頼経は「大殿」と呼ばれ鎌倉に留まった。ところがそのわずか二年後、執権経時は急死してしまう(寛元四年四月一日ー1246年)。
経時の死により、鎌倉市中は騒然となり、反北条方の謀反発覚(名越光時ら)なども加わり、連日武装した御家人衆が行き交う有様となった。
寛元四年七月十一日(1246)
執権職を継いだ時頼は、これ以上の騒動になることを恐れ、将軍頼経を京都へ帰還させる。その際の随行員は、以下の通り。(吾妻鏡による)
(同行後京に留まる者)
藤原親実、大江能行、伊賀光重、本間元忠、信濃権守、伊賀光義、信濃右馬允、高橋光泰、弥五郎右馬允盛高、斎藤清時、藤原秀実、十郎兵衛尉
(同行後鎌倉へ戻る者)
北条時定、後藤元綱、狩野為佐、三浦光村、島津忠時、二階堂行泰、丹波頼行、毛利経光、下妻長政、大曽禰長泰、結城時光、宇都宮泰親、三浦資村、佐原胤家、武藤景頼
寛元四年八月一日(1246)
頼経供奉一行が京都から鎌倉へ戻る。その際、三浦光村は二十年側近として仕えた頼経との別れに涙し、必ずや頼経を再び鎌倉へ戻そうと決意した。光村は、反北条の急先鋒であり、頼経を必要としていたからである。
寛元四年九月一日(1246)
北条時頼が、三浦泰村を招き、京都六波羅探題の北条重時を鎌倉へ呼び戻したいと相談したが、泰村はこれに反対した。時頼はまだ若年で、自らの補佐役として有能な叔父を近くに置きたかったと思われる。
以降合戦が起きるまでの期間、奇妙な現象が相次ぐ。吾妻鏡はこのことを詳しく書いている。
寛元四年十一月二十七日(1246)
大地震あり。
宝治元年一月十三日(1247)
法華堂の前の民家数十件が失火で焼失。金沢実時の邸宅も含まれていた。
宝治元年一月二十六日(1247)
雷鳴数回
宝治元年一月二十九日(1247)
羽蟻の大群が発生し鎌倉中を覆う。
宝治元年一月三十日(1247)
北条時盛の邸宅背後で光る物が飛ぶ。
宝治元年二月一日(1247)
鶴岡八幡宮で供物を供えようとしたところ、扉が数刻に渡り開かず。
宝治元年二月六日(1247)
北条時盛が病気
宝治元年三月一日(1247)
北条時頼の妹(足利泰氏室)が死去
宝治元年三月十一日(1247)
由比ヶ浜の潮が変色し血のように赤くなる。
宝治元年三月十二日(1247)
大きな流星が艮(うしとら)の方角より坤(ひつじさる)の方角に飛ぶ。音がして比べようもないほどに大きなものであった。
宝治元年三月十七日(1247)
黄色い蝶が鎌倉中に満ち溢れる。これは兵革の前兆であるという。過去、常陸、下野、陸奥、出羽で同じ怪異が起こり、平将門、安部貞任らが戦いを起こした。再び東国に兵乱があるのではと古老は疑っている。
宝治元年四月四日(1247)
安達景盛が高野山から鎌倉に到着。景盛は宝治合戦の首謀者とされる人物。
宝治元年四月十一日(1247)
鎌倉へ到着以降、安達景盛は何度も北条時頼邸を訪れているが、この日は特に長い間留まった。子息の不甲斐なさを厳しく諌め、このままでは三浦一門に滅ぼされるであろうと語った。
宝治元年四月二十五日(1247)
日(太陽)に暈(かさ)がかかった。
宝治元年五月六日(1247)
三浦泰村の次男駒石丸を北条時頼の養子にすると約束された。時頼は最後まで三浦との争いを避けようと努めたとされるが、これもその一連の話であろうと思われる。
宝治元年五月十三日(1247)
北条時頼の下の妹(征夷大将軍藤原頼嗣室)が死去。北条時頼は服喪のため、三浦泰村邸に移動する。
この時、時頼は泰村の屋敷を訪れている。この時はまだ疑いはなかったように思われる。
翌日、頼嗣室は佐々目谷の北条経時墳墓の側に葬られる。
宝治元年五月十八日(1247)
光る物があり、西の方角から東の方角に飛んだ。その光はしばらく消えなかった。その時、安達義景宅に白旗が一本現れ、人がこれを見た。
宝治元年五月二十一日(1247)
鶴岡八幡宮の鳥居の前に以下の木札が立て置かれた。置いた物が誰かは不明である。
「三浦泰村は独断の余り厳命に背いているため、近いうちに誅罰を加えられるとの審議が行われた。よくよく慎むように。」
しかし、何の厳命かは分からない。言い掛かりであろうと思われる。
宝治元年五月二十六日(1247)
三浦泰村に同心していた、土方右衛門次郎が一通の願文を神社に捧げた。偶然時頼がその内容を知ることとなった。
「私は三浦泰村一党の反逆には加担しないので、雷神は御加護を加えてお守りください」
宝治元年五月二十七日(1247)
北条時頼は服喪のため、三浦泰村邸にいたが、泰村は普段着で時頼を接待するなど特に怪しいことはなかった。しかし、泰村一族が群集する気配があり、それまで泰村を疑ってはいなかったが、思い合わせ急遽泰村の館を出た。泰村はこれを知り非常に驚き、時頼に陳謝したという。
宝治元年五月二十八日(1247)
反北条の急先鋒、三浦光村(泰村の弟)の謀反が発覚したという。時頼は泰村と親族郎党の屋敷周辺に使いを出した。武具を屋敷に整え、上総、安房の所領から船で甲冑のような物を運んでいると言う。
宝治元年五月二十九日(1247)
三浦(佐原)盛時が時頼に以下の報告をした。
「十一日に陸奥国津軽の海辺に巨大な人型の魚の死骸が打ち上げられた。古老は、この先例は不吉だと。奥州藤原泰衡が誅伐された際、源頼家が伊豆に幽閉され死去した際、和田義盛の大乱があった際にもこの魚が海に打ち上げられたと言う。
宝治元年六月一日(1247)
時頼は佐々木氏信を三浦泰村の元に遣わせた。屋敷内には弓や鎧が多数置かれている。従者友野太郎に様子を窺わせると、百二三十の鎧唐櫃が置かれているようだ。その後、氏信は泰村と雑談した。泰村は、
「一族郎党高い官位と多くの所領を所有し栄運が窮まっている。讒言を避けるために慎んでいるのだ。」
氏信は、このことを時頼に伝えた。時頼の疑いはさらに強まった。
宝治元年六月二日(1247)
近国の御家人たちが鎌倉に急行し時頼邸の周囲を取り囲んだ。この時、三浦一党の三浦(佐原)盛連の子息たちが、時頼方につくため、時頼邸に入った。盛連の妻、矢部禅尼は時頼の祖母にあたる。三浦義村の娘だが、北条泰時と離縁後、佐原盛連に再嫁し、北条氏との関係が深かったためである。佐原盛時、経連、光盛、比田広盛、藤倉盛義等である。
宝治元年六月三日(1247)
三浦泰村邸の南庭に以下の落書きがあった。
「このところ世間が騒いでいるのは、あなた(泰村)が討たれるとの理由からです。御心得のために申し上げます。」
泰村は、これは陰謀であると落書きのある板を打ち壊した。その上、時頼に以下の申し入れを行なった。
「世間の噂を聞くと、私が討たれるという恐れがないとはいえないようです。しかし、泰村は決して野心を抱いてはおりません。進退は貴命に従います。」
泰村は、時頼が泰村の館を出て以降、たいそう歎き、心配で寝食も忘れているという。
宝治元年六月四日(1247)
鎌倉中は、時頼方、泰村方の武士がひしめき、区別もつかないほど満ち溢れている。時頼はこれらを退散させるよう、諏訪盛重、万年馬入道らに命じた。泰村の妹を妻としている関政泰は、この時一旦奥州へ引き返そうとしたが、道中泰村が追討されると聞いて引き返した。
毛利季光の妻は三浦泰村の妹である。本日季光の妻が泰村宅を訪れた。
「初め騒動については気にしていなかったが、本日確かにあなたが討伐されると聞きました。この上は必ず勝利してください。夫も味方するでしょう。たとえそうでなくとも、必ず私が諌めて同心させます。」
宝治元年六月五日(1247)
昨日の申し入れにも関わらず、鎌倉中はますます騒然としていた。時頼は万年馬入道を泰村のところに遣わし、この騒動を鎮めるよう伝えた。また、平盛綱に託して、書状を泰村に届けさせた。
「世上は天魔に侵されているのでしょう。上の計らいは、貴殿を誅伐しようとしているのではないでしょう。この上は、このところのように異心があってはなりません。」御誓書も書き加えられていた。盛綱は言葉を尽くして和平の事情を述べた。泰村は非常に喜んだ。
上記の最中、安達景盛はこのことを知り、子息の義景、泰盛を招いて叱咤した。
「和平の御書状が泰村に遣わされた以上、三浦一族は生きながらえ、独り驕り高ぶり、やがては当家に災いが降りかかることになろう。こうなってはただ運を天に任せて、何としても本日中に三浦一族を討伐せねばならぬ。」
安達泰盛、大曽禰長泰、武藤景頼、橘公義らは、安達の館を出て、若宮大路から、鶴岡八幡の赤橋を渡り、平盛綱が時頼邸に到着前に神護寺の門外で鬨の声を上げた。鶴岡八幡中に陣を張っていた武士は全てこれに加わった。
泰村はこれに驚き防戦し、以前より泰村邸付近のあばら家に潜んでいた橘公員は、小河次郎、中村馬五郎が先陣を切らせ攻め寄せた。小河は射殺され、中村も傷を受けた。
平盛綱はこの間、時頼邸に到着し事情を説明したが、安達泰盛が既に攻め寄せている以上、調停の術なきと判断。金沢実時に幕府を警護させ、北条時定を大手の大将軍とした。時定は、塔の辻から旗を上げて急行した。従うものは雲霞のごとくであった。諏訪盛重、二階堂行忠の両名は大きな戦功をあげた。
毛利季光は甲冑を着て軍勢を率い、北条方に与しようと出立しようとすると、妻が鎧の袖を取って言った。
「泰村を捨てて、時頼に味方するとは武士のすることでしょうか。長年の同意を反故にするものです。恥を知りなさい。」
これを聞いて季光は心変わりして泰村の陣に加わることにした。道中、兄の長井泰秀と出会った。お互いその事情は分かっていた。泰秀は季光を押し留めることはしなかった。
万年馬入道は、時頼に伝えた。
「毛利季光は、敵陣に加わりました。今となっては、世の大事となることは必然でしょう。」
これを聞いた時頼は、将軍藤原頼嗣の御前にお伺いし、策略を廻らせた。風が北から南に吹いていたため、泰村邸の南隣の民家に火を放った。炙り出された泰村一党は法華堂へ逃れ、弟光村は、永福寺に籠った。
光村は泰村へ遣いを出した。
「永福寺は優れた城郭です。ここで討手を待ちましょう。」
泰村が答えた。
「たとえ鉄壁の城郭でも今となっては逃れられない。同じことならば、頼朝の御影の御前で最期を迎えようと思う。すぐにこちらへ来るように。」
光村一党が法華堂へ向かう途中、長井泰秀、二階堂行方らが迎え撃ち両者多くのものが傷を受けたが、光村は法華堂へ到着できた。
毛利季光、三浦泰村、三浦光村、三浦家村、三浦資村、大河戸重盛、宇都宮時綱、春日部実景、関政泰等は頼朝の御影像の御前に並び、互いに昔のことを語りながら最期の述懐を述べた。
季光は専修念仏者であり、人々に勧めて、極楽往生するための法事讃を諷誦して廻向した。光村が調声となったという。
時頼の軍勢がここへ殺到した。三浦方は防戦し弓剣の技を競った。大仏朝房に大きな戦功があった。
泰村方は矢が尽きて、主だった者二百七十六人をはじめ、都合五百人が法華堂内で自刃した。
次いで佐々木泰綱、氏信らが仰せを受けて、長尾景茂を追討するため屋敷に向かったが、既に法華堂で自刃していた。
死骸の実見の後、京都六波羅探題の北条重時の元へ御消息二通が遣わされた。
「若狭前司泰村、能登前司光村以下、舎弟、一族の者が、今日の巳の刻にとうとう矢を放ってきたため、合戦となり、ついにその身をはじめ一家の者や一味の者は誅伐されました。この旨を冷泉太政大臣(藤原実氏)殿に申し入れられますように。謹んで申します。
六月五日 左近将監(北条時頼)
謹上 相模守(北条重時)殿」
「毛利入道西阿(季光)は思いがけず同心したため誅伐されました。若狭前司泰村、能登前司光村や一家の者、一味の者らは、以前から(合戦の)備えをしているとの風聞があったため、用意されていたところ、今日(五日巳の刻)に矢を放ってきたため合戦となり、その身をはじめ一家の者、一味の者らは誅伐された。それぞれこの旨を承知し、(鎌倉へ)急行してはならない。その上に、また近隣に伝えよと、広く西国の地頭、御家人に命じられるよう、仰せによりこの通り伝える。
六月五日 左近将監(北条時頼)
謹上 相模守(北条重時)殿」
宝治元年六月六日(1247)
宝治合戦の前年、時頼が執権を継承した際の政変(宮騒動)に加担し、評定衆を更迭された、千葉秀胤にも追討の命令が下った。三浦氏の娘婿であるという理由である。三浦氏の次に強い勢力を誇り、北条方に反旗を翻す可能性があると見ての決断であろう。
追討は、千葉氏一族である、大須賀胤氏、東胤行らに命ぜられた。翌六日、上総国一宮大柳(千葉県睦沢町)を襲撃した。千葉秀胤とその子息時秀、政秀、泰秀、秀景の他、秀胤の弟埴生(はぶ)時常達総勢百六十人ほどが自刃して果てた。
宝治元年六月八日(1247)
常陸国で関政泰の郎従らが反乱を企て、小栗重信と合戦。降伏した。
法華堂の承仕一名が召し出された。昨日、香華を備えるため堂内にいたところ、突然大軍が押し寄せ、逃げ場を失い天井に隠れた。一党の最期のの様子を隙間から覗き見たという。平盛時、万年馬入道らがこれを聞き、中山盛時がこれを記した。
「天井の隙間から覗いていたところ、三浦泰村以下の大名は、以前にその顔を知っていたので間違いはありませんが、その他の多くのものは知らないものたちです。次に申したことは堂内が騒然としていた上に、末席の言葉などは聞き取ることはできませんでした。そうしたところ主だったものはもはやこれまでといい、このところの思いを語りました。大半は泰村、光村らが権力を握れば、一族は官職を極め、諸所を知行したであろうとのことです。特に光村が強く主張していたようです。
『藤原頼経の御時、藤原道家の内々の命に従って計画していれば、武家の権力を握っていたのは間違いない。不覚にも泰村が実行しなかったため、今となっては愛する子供と別れる悲しみを味わうだけでなく、永く当家が滅亡する恨みを残すことになり、悔やんでも余りある。』
自ら刀を手にして自分の顔を削り、さらに顔がわかるかどうか人々に訊ねた。
『その流血で御影を汚し、その上に寺院を焼き、自殺して穢れた姿を隠そうとするのは、不忠の極みである。』
と、泰村が頗りに止めたため、火を付けることはできませんでした。総じて泰村は全てに穏便のようで、以下のように言いました。
『数代の功を思えば、たとえ一族のものであっても罪を赦されるべきである。ましてや義明以来の四代の家督として、また北条殿の外戚として、内外の事を補佐してきたところ、一度の讒言により多年の昵近を忘れてたちまちに誅戮の恥を与えられた。恨みと悲しみが重なっている。後日になってきっと思い合わされることもあろう。ただし三浦義村は、自門、他門の者に多く死罪を行い、その子や孫を滅ぼした。罪業の因果であろうか。今はもう冥途に行く身であり、強ちに北条殿を恨んではいない。』
涙が溢れてその声は震えており、言葉ははっきりと聞き取れませんでしたが、趣旨はおおよそこのようなものでした。」
宝治元年六月九日〜二十一日(1247)
武藤景頼が、金持次郎を生け捕った。泰村方に与して法華堂にいたが、途中で逃げ出し行方をくらましていた。
春日部実景の子息の幼児が武蔵国から鎌倉へ到着。
海東忠成が評定衆を解かれた。毛利季光に同意していた罪による。
上総で討ち取られた千葉泰秀の一歳の子供が存命であった。これを東胤行がひきとることを赦された。
今度の首謀者らの後家や幼い子供などを全て探し出された。
三浦泰村の後家は鶴岡八幡宮別当法印定親の妹で三歳の子供がいる。三浦光村の後家は、後鳥羽院の北面であった藤原能茂の娘で並びない美人である。光村は特に寵愛し、最期の時にお互いに小袖を取り替えて着替えた。その香りが残っていると、今も悲しみに泣き叫んでいるという。同様に赤子がいる三浦家村の後家は、島津忠時の娘である。家村には三人の子供がいる。妾の子もいるという。彼女らはいずれも出家した。三浦員村の子息の子童が囚人となり河津尚景に身柄を預けられた。
千葉秀胤の未子一人(一歳)、千葉政秀の子息二人(五歳、三歳)、埴生時常の子息一人(四歳)が出頭し、それぞれ保護された。
鶴岡別当法印定親が蟄居。泰村の縁座(泰村の妻の兄)
奥州にいた三浦胤村が、一族が滅亡したと聞き出家した上に囚人となった。小山長村がこれを鎌倉へ引き連れた。
留守介が、奥州で佐原(三浦)秀連を討ち取った。
宝治元年六月二十二日(1247)
去る五日の合戦の主だった者の分が披露された。
自殺、討死など
三浦泰村、同子息景村、同子息駒石丸、三浦光村、同子息駒王丸、三浦三郎、三浦資村、同弟重時、三浦氏村、同朝氏、同忠氏、三浦員村、毛利季光、同子息光広、同子息光正、同子息泰光、同子息吉祥丸、大河戸重隆、同子息重村、同次郎、三浦義有、三浦高義、三浦胤泰、三浦家康、高井実茂、同子息実泰、同実村、佐原泰連、同信連、同秀連、同光連、同政連、同光兼、同頼連、佐原胤家、佐原光連、佐原泰家、佐原泰連、長江義重、下総三郎、佐貫次郎、稲毛左衛門尉、同十郎、臼井太郎、同次郎、波多野六郎左衛門尉、同七郎、宇都宮時綱、同子息時村、同五郎、春日部実景、同太郎、同次郎、同実季、関政泰、同子息四郎、同五郎左衛門尉、藤原仲氏、宮内公景、同太郎、弾正左衛門尉、同弟十郎、多々良義重、石田重方、印東太郎、同子息次郎、同三郎、平塚小次郎、平塚光広、同子息太郎、同三郎、同土用左兵衛尉、同五郎、得富小太郎、遠藤太郎左衛門尉、同次郎左衛門尉、佐野実綱、同子息成綱、佐野宗綱、榛谷四郎、同子息弥四郎、同五郎、同六郎、白河為親、同弟七郎、同八郎、同式部丞、千葉秀胤、同子息時秀、同子息政秀、同子息泰秀、千葉秀景、埴生時常、武左衛門尉、同一族、長尾景茂、同定村、同為村、同胤景、同新左衛門四郎、秋庭信村、岡本次郎兵衞尉、同子息次郎、橘惟広、同子息左近太夫、同弟橘蔵人
生死不明
三浦家村
生け捕られたもの
三浦胤村、金持次郎、毛利文殊丸、豊田太郎兵衛尉、同次郎兵衞尉、長尾次郎兵衛尉、美濃時秀、大須賀範胤
逐電(行方をくらました)もの
小笠原長村、大須賀重信、土方次郎
以上
宝治元年六月二十三日(1247)
春日部実景の幼い子息が武蔵国より連れてこられた。
宝治元年六月二十五日(1247)
三浦泰村はじめ亡くなった者の後家らが生計をたてるための御処置を行われるとの決定があった。
宝治元年七月十日(1247)
相模国一宮の杉の木数本が焼失。神火であろうかとの報告。特に驚いて審議。
宝治元年九月十三日(1247)
北条時頼が、法華堂に参詣。
宝治元年九月十六日(1247)
相模国毛利庄の山中で怪異。毎夜、田楽の粧をしていたと土民が言上。
宝治元年十月八日(1247)
大地震
宝治元年十一月二十六日(1247)
大地震
宝治元年十二月二十九日(1247)
恩賞の審議。
小山長村、遠山景朝、島津忠時、葛西清親、中条頼平、二階堂行義、結城朝広、千葉頼胤、宍戸家周、足立遠元、後藤元綱、伊東祐時、佐々木義清、佐々木泰綱、三浦盛時、名越時章、安達義景、大友能直、足利義氏、天野政景、二階堂行盛、宇都宮泰綱、長井泰秀
宝治合戦以降〜鎌倉幕府滅亡まで
この戦いによって、北条家に比肩する有力御家人は幕府中枢から姿を消した。しかし、この戦のわずか40年後、首謀者として生きながらえた安達一族も景盛の孫、泰盛の代にいたり、弘安八年十一月十七日(1285)霜月騒動によって滅ぼされる。蒙古襲来前後における内外の対応をめぐる諍いが原因であったとされている。霜月騒動により、北条氏以外の幕府創設以来の有力御家人は幕府中枢からほぼ姿を消し、ここに北条得宗専制支配体制が確立する。
しかし、その北条氏もそのわずか40年後。東勝寺合戦により新田義貞達によって滅亡される。その時、霜月騒動の際、乳飲み児であったために難を逃れ、北条氏によって養育された、安達泰盛の異母弟の子安達時顯も、北条一族と共に自害して果てた。
日本史上において、一氏族が、累代に渡って他氏族を殺戮し続けた例はあまりない。源頼朝は、身内を殺戮し、それを引き継いだ北条氏は、政敵を殺戮し続けた。今回調べを進めて行くうちに感じたことは、宝治合戦終焉の地法華堂は、そこに果てた者達の怨念が渦巻いているが、北条氏終焉の地東勝寺の腹切り櫓には、そこで果てた者達の思い以上に、それまで北条氏によって滅ぼされた幾多の御家人衆の怨念が向かっている場所であろうということだ。
人が近づき難い雰囲気の腹切り櫓には、生前高倉健氏が、毎年のように塔婆を捧げていたという。聞くところによると、高倉健氏は、北条氏の血を引く家系であるらしい。あの場所に北条氏の血を引くものが入ることは非常に難しい。そのような場所に自ら足を運び供養を捧げる気概には感銘を覚える。考えてみれば彼の役者人生は、役者という稼業を通して武士(もののふ)へ供養を捧げ続けた人生だったのかもしれない。
鎌倉幕府終焉の地東勝寺跡という場所を解放するには、北条氏の血を引くものが、鎌倉幕府累代の抗争で散った御家人達の思いを受け止めることが必要であろう。はたして、高倉健以外にそのような人物がいるのかどうか。今後に期待する以外にない。東勝寺の意識が解放されれば、鎌倉は解放され、ゆくゆくは日本の抗争史に累積する意識も解放されるかもしれない。
毛利氏の祖毛利季光は、宝治合戦で兄(長井氏)が北条方であったため、当初北条方に与するつもりであった。しかし三浦泰村の娘であった妻に強く諌められ、三浦方に与することとなる。その経緯は吾妻鏡の中に詳しく書かれている。このように夫婦関係が戦乱の帰趨を決する過程が詳述されているのは、吾妻鏡における宝治合戦の文書中には他に例がない。時頼の正室が季光の娘であったためであろう。吾妻鏡の記録を見る限り、季光が三浦方に与することで時頼方は、この戦はもう収まらないと判断したようである。
二大勢力に挟まれ煩悶しながら滅ぶ有様は、後の関ヶ原合戦における毛利氏の対応に、カルマのように襲いかかる。関ヶ原は豊臣恩顧の大名群と、徳川氏との権力闘争であった。頼朝恩顧の御家人と北条氏との権力争いが宝治合戦であると考えると、実に符合する。しかし毛利氏は幕末に島津氏(島津氏も元鎌倉幕府の御家人である)とともに、江戸幕府を打倒した。歴史はこのように様相を変えながら何度も繰り返すのである。それは現代にも引き続いている。そしてこの流れを見ることで、古代へも遡ることが可能である。
この繰り返しの流れを変化させることは、日本人の意識が、日本人として、世界的視点でものを見る目を得るきっかけに繋がるかもしれない。歴史は一部だけ切り取って見てはいけない。常に連続性の中に息づいているのである。
宝治合戦供養 了
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もう十年以上前からこの記事をまとめたいと考えていた。今回、わずか二日で書き上げることができた。いざとなれば早いものである。私をいい意味で追い詰めていただいた名取智郎氏に感謝。
(写真:北条時頼 wikiより 参考引用図書:吾妻鏡12巻宝合戦 吉川弘文館)

