アリンコじゃあるまいし。
自分自身の感覚から考えてみた時、人と自分が「平等」であることに喜びを見出すことがあるだろうか。恐らくとんでもないと思うだろう。私は私であり、人は人だ。素直な心になればそう感じるはずである。
私とあなたが平等であると思った時、非常な喜びや幸福感が湧き出してくるだろうか。そんな人は気持ち悪いと感じる。そういう人とはあまり付き合いたいとは思わないだろう。
なぜなら自分とあなたは違うんだから。
「君と私は平等だね」
というセリフで愛を交わす人がいるのか。
「平等」という言葉は、誰かが作った「理屈」だと気づく。だから本当の自分から見たら、違和感を感じるのだ。
しかし、昔から何事も平等であることが必要であり、良いことだと教えられているから、そうしなきゃならないし、そう言わなくてはならないと思い込んでいる。
「何とかしなきゃ」
人と人とがつながった時に感じる喜びや幸福感がある。それは「私」という自分と「誰か」という他人の心と心が共鳴していることを感じるからである。
共鳴することから信頼関係が生じる。
自分と人間以外の何かとの間に感じる感覚もまた同様である。
万物は繋がっている、と言われる。その時に感じる喜びや幸福は、
「みんな平等なんだ」
という感覚ではないはずだ。そういう感覚から喜びを感じる人がいるのだろうか。
こうしてみると「平等」という言葉が真理から離れた言葉だと分かる。
この言葉にはよそよそしく、無機質で機械的な言葉の響き。言霊の力がある。
「平等」という言葉の中に人間不信が横たわっているからだ。それは「平等」という言葉の歴史を見てみることで理解可能である。
他人の「理屈」から生まれた言葉。この言葉は機能を表す表現とはなり得るが、真理にはなり得ない言葉であることが分かる。
真理から離れた言葉で人間社会を規定し、それで世の中が上手くいくのか。
言葉というのはよく選ばなくてはならない、と言われる。もっと別の言葉があるはずだ。
この言葉にもそれなりに「お世話」になった面はあろうけれど。
そろそろ次の段階へ進むべきだ。
「よりましな」考え方の下に生きることができるはずである。
「もういいだろう。」
そんな思いが浮かんだ。

