ハワイに古代から伝わる民俗宗教には、神々、先祖、土地、の三つを大切にし、先祖と土地の霊を重んじ、祓い清める儀式がある。人々がさまざまな問題に直面した時、神々と交流し、先祖霊を清め祓い、土地に関わる精霊や霊魂を祀り、清め祓うことで問題を解決する。
言葉は、清め、祓い、祀り、という表現ではなかったが、意味は同じである。
それが現代に至り「ホオポノポノ」として日本にも紹介されている。古代では合議制のような形で話し合いを行って解決する方法であったが、近代に至り、ある人物が、個人でも解決できる手法を考案した。もしかすると、西洋的プロテスタンティズムの影響があったのかもしれない。しかし、それは現代人にとっては必要なことだったと思う。ハワイにおける西洋文明との習合であったと言えるであろう。
ハワイからヒューレン博士というホオポノポノの責任者が来日し、話を聞く機会があった。そこで初めてハワイの古代民俗の存在を知ったのである。講演会の内容は、日本人の文化的感性に響くものであり、違和感なく受け入れられ、儒教のように大陸文明的な、理屈っぽく、ある種支配者的な堅苦しいものではなく、感覚、感性共に日本人的であると痛感し、また驚きもした。
ハワイの民俗、沖縄の民俗は極めて近い。また日本の東北地方に伝わる民俗とも共通性がある。恐らく北米のインディアンの民俗とも関わりがあるだろう。また、オーストラリア、ニュージーランドの原住民の習俗にも近いものがある。
日本の古代からの民俗のルーツは近年になって、朝鮮半島由来だという説が、その夥しい書籍の発行によって、半ば通説化しようとしているが、誤りである。
日本の伝統民俗、即ち神道の源流は、太平洋文明圏に属するものである。私はホオポノポノの存在を知ることで確信した。まさかハワイの伝統民俗が「半島由来」だという者はいないであろう。また、折口、柳田、谷川などの日本の主要な民俗学の論考においても、日本神道の源流と沖縄民俗との共通性が示唆されている。
儒教にも祖霊崇拝の思想があり、もちろん日本にも流入して神道などに影響を与えているが、これはかなり後代に入ってからのものである。儒教の祖霊祭祀の思想は日本人の感覚から見るとはるかに堅苦しいもので、源流とするには感覚が違いすぎている。天皇祭祀の手法には、特に奈良から平安にかけての期間に儒教的な思考が習合しているであろう。
修験道は、仏教や陰陽道と習合しているが、源流は別ルートかもしれない。近年話題になっている、秦氏族に関しても、彼等が渡来したのはやはり後代に入ってからの話である。
仏教が半島経由であることは確実だが、神道はオリジナル、もっと言えば相当に古い時代からの太平洋地域一帯に伝わる文明の残滓が、日本において神道という形で発展し、後代に入り、大陸文明等が習合したものが、日本文明の骨格である。
流入という意味では、稲作文化に関しても、中国南部から海伝いに伝播してきたということが、稲の遺伝学的研究によって明確になっているから、大陸からの文化流入もまた、古代においては、海路で南方方面から伝わったものも多かったと推測される。しかし大陸外起源もあるのではないか。
出雲地方の神社を巡った時、常に朝鮮半島の匂いがした。これはやはり朝鮮半島から渡来した人達がこの地域に移り住んだものだろうかと思っていたが、最近幾つかの書籍と出会うことによって、その謎がようやく解けると同時に合点がいった。
古代における総称倭人、あるいは倭種の生息域は、朝鮮半島南端に及んでいたという。朝鮮半島の古代史書及び中国の史書類を解析することで明確になるというのである。近年(特に戦後)における日本と半島に関わる古代史の論説の大半は、中華文明特有の歴史書換という、夥しい活動の所産により、「半島由来」にされようとしている。
「任那」にしても、私の高校時代くらいまでは教科書にも日本の領地(あるいは拠点)であったことが、記載されていたが、これも、最近は違っているという。半島からの凄まじい「猛攻」にさらされて書き換えられそうな勢いらしい。
韓国では、中国のさまざまな文化の起源をも半島由来であるというような書籍刊行や主張を行い、中国人からも失笑をかっている有り様であるというから、こうなるともはや全く信頼度ゼロといったところであろう。古代日本と半島情勢に関しては、中国や朝鮮半島の古代史書及び記紀を解析すれば自ずと史実は明らかになることだ。
古代において、日本と朝鮮半島との関わりは今のように偏ったものではなく、もっとフラットな関係であった。従って、近代以前に書かれた朝鮮半島の歴史書が正しいのである。仮に、当時においても自分達に都合の良い歴史書換があったとしても、朝鮮王朝の正史に記述ミス(誤字誤植)はあり得ない。そんなことがあれば担当役人は首を刎ねられたであろう。
このように都合の良い歴史書換があったにせよ、その古代史においても、朝鮮半島南端は倭人の生息域であったと記載されているとすれば、どう贔屓目に見てもそれは事実であろう。ましてや、中国の史書において朝鮮半島に関する記述を「都合良く書き換える」理由はどこにもない。
以下は中国の史書における当時の韓人と倭人に関する記述。
『三国志 韓伝』
韓は帯方郡の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、四方は各四千里ばかり
『魏志倭人伝』
郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に到着するまで、七千余里。初めて海を渡ること千余里、対馬国に至る
(上記の里は現代日本の(4キロ)とは違う。)
韓伝では、「南は倭と接し」ているのであり、魏志倭人伝では、倭の「北岸」は狗邪韓国であるとはっきり記載されている。海を渡って倭国なら、接しているとは書けない。韓国の北岸が倭と接しているわけがない。狗邪韓国は韓国とあるから韓国の一部であるように思われるが、当時は倭国の一部と考えられていたと解釈できる。
どうして今までこういう指摘がされてこなかったのだろう。不思議でならない。より正確な古代における日本と朝鮮半島との関わりに関する研究が進むことを期待している。
韓国と倭が国境を接していたという以上、文化的な交流も双方向的に存在したと思われる。それが日本海を越えて出雲に至り日本文化に影響を与えたことはあったであろうし、逆もまた存在した。


