ーアルケミストと羊をめぐる冒険ー
先日、ある青年に出会った。小説家を志望しているという。
「ある出版社の編集者に作品を直接見てもらっています。OKが出たら正式にデビューできると思います。」
彼の作風は「セカイ系」だという。
初めて聞いたが、感覚的に理解できた。エヴァンゲリオンとか20世紀少年とかのイメージが浮かんだ。
ある評論家によると、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」もその流れに入るのだという。
私はパウロコエーリョの「アルケミスト」の話をした。
彼は興奮気味に、あの作品を読みましたと語った。
村上春樹とパウロコエーリョは共にノーベル文学賞候補者と言われているが、私に言わせれば対極的な作家である。
パウロコエーリョは、真理と確信の作家であり、そのための旅人である。
一方村上春樹は、全てが曖昧で漠然とした世界観の住人であり表現者だ。彼は何一つ確信的な真理を語ることなく、そもそも彼の中に真理の柱それ自体がないのかもしれない。しかし、雰囲気作りと情景描写を感覚と心理に織り交ぜて表現することにおいては達人である。
彼は常に、何か確信を得られる真理がどこかにあるかもしれないと感じつつ、心地よい雰囲気の中に彷徨う旅人である。
彼は戦後日本の体制下で育まれた、己の価値観を異国の征服者に奪われた者の喪失感の代弁者であると私は思っている。
にもかかわらず、彼の作品は東洋西洋を問わず世界的なベストセラーとなった。もちろんパウロも世界的なベストセラー作家だ。
村上が表現する、日本人の喪失感が世界の人々に受け入れられている。不思議なことと言えるだろう。
世界もまた多くの人々が「喪失」しているのかもしれない。
しかし、私は村上春樹の人間性や表現感覚よりも、パウロの率直な表現力のほうが優位だと思っている。
村上春樹はデカダンスであり、パウロコエーリョは力強い意思の力を体現している。
村上は癒しであり、パウロは人を次のステップへと導く。
二人が同じ立ち位置に立たされた時、勝利できるのはパウロではないかと感じるからである。
1時間後の追加
ならば日本人はどうすれば良いか考えなくてはならない。
(文章を書くということはこういうことなのであろう)

