過酷な時代になってきた。我々人間は、過去の歴史を振り返ると、はじめ人は、
神
宗教者
王
軍人
政治家
資本家
などに世の中の責任を託してきた。歴史を見ると、神なるものは、人の魂をより低い位置の者にその責務を負わせるように仕向けてきた。それが人類の歴史というものである。
現代はそのどん詰まりである。しかし、全ての個人の意思と思いが許される時代になったのである。
今や民主主義。民主主義ということは個々人が自らの人生の全ての責任を自分で負うということだ。人は神と同格だ。そもそも科学は神を軽んじており、人間の理性や意思こそが最も優れたものだと自負しているではないか。
なにがしかの「聖人」「権力者」「能力者」「超人」あるいは「神と神々」に責任を負わせる時代ではなく、それと同じ責務を全ての個人が負うのである。なぜならば人はそれを否定し嘲ったからである。それを熟知した上で、我々は人権とか平等などと言っている「はず」である。
会社員、商人、農夫、漁師、職人、自営業者、政治家、経営者、スポーツ選手、芸術家、宗教家や霊能者、何らかのフリーランス、はてはフリーターやヤクザや挙句テロリストにいたるまで、己の人生の責任を全て自らが負わなければいけない時代が民主主義の時代というものであろう。
これは魂の最終局面である。
逃げた奴は負けだ。楽なほうへ楽なほうへ、厳しい環境に耐えられず、気持ち良い方向へただ逃げる。逃げれば逃げるほど結論は厳しいものになるだろう。
何故か。人にはもう逃げ場がないからであろう。
民主主義ということは、万人がそういう巨大な責務を負うことだ。個人の権利を主張するということはそういうことだ。
それができなければ民主主義など今すぐ放棄すべきであろう。
生死を問わず信念や責務を貫くものには、神の祝福があるのかもしれない。
逃げた者は、全てを失うか魂を悪魔に捧げるか、そういう地獄の生き方の結果を得る。
テロリストが神の祝福を受ける結果になってはこの世は地獄であろう。
善悪に関係なく魂の意思を評価する時代。それが水瓶座の時代である。(キリスト誕生以降の二千年をうお座の時代、それ以降は水瓶座の時代と言われる。これは占星術の知識である)
破壊と創造の世紀であるとも言われている。
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こんな言葉を直感的に受け止めました。

