夢を見た。
夢の中で、ある信仰者と私とが論争をしている。
その人は言う。
「君は船には乗れない。だから言ったじゃないか。今からでも遅くはない。君が乗れないのは、これこれこういう原因があるからだ。その原因を取り除くためには、これこれこういうことをする必要がある。」
私は言った。
「結構です。私はあなたとは別の船に乗ることにしますよ。結局あなたは、そういうドグマから一歩も抜け出すことができないんだね。」
男は私の言葉を聞いて、微笑を浮かべたが、彼の心の動きはどうだか知れなかった。
この世に存在する何千何万あるかもしれぬ信仰というものには、全て同じロジックがある。
『Aという問題や苦しみが存在するのは、Bという原因があるからである。Bを取り除くためには、Cを行わなければならない。』
そして、これに補足が加わる。
『私以外のもののいうことは信じてはならない。』
あるいは、
『私の言っていることが、最高であって、それ以外のものは、あるとしてもこれより劣っている。』
信仰しているものの気持ちというものは、信仰したものにしか分からないものだろうが、以前そういう世界を見たことがある。
信仰するもの特有の満足感というか、優越感のようなものがある。中には、自らのコンプレックスの裏返しとして、そういう宗教的なドグマを利用して優越感にひたるものもいる。
ちなみに、信仰のない人々は、「救いの世界」から「埒外の存在」という見方になる。
こういうことを書くと、何かカルト教団のように感じてしまうのだが、普通のキリスト教徒や仏教徒であっても、何かに所属しているものは大体こんな感じになっている。墓所のある檀家であるだけのような場合は、信仰しているとは言えないので含まないが。
極端なことを言うと、宗教というものは、煎じ詰めるとどれもみなカルトである。普通の日本人が、海外のキリスト教やイスラム教の信者達を見たら、そう感じることが多いのではないか。
余程、成熟した人であれば、全ての信仰の行きつくところは、同じであって、たまたま人によって、よってたつベースメントに違いがあるにすぎない。
信仰に時間軸は関係なく、人それぞれの立ち位置や事情状況は、相対的なものである。と冷静に考えられる人もいるだろう。
しかし割合的にはかなり少数と見てよいし、自分を含め、人々の心の底まで状況を相対的に観察できるものは極めて少ないだろう。
ここまで熱心に宗教に関わってきた人類の、このおよそ二千年間に渡る『宗教の時代』を通して人間はどれほど変わることができたのか。
信仰とは何か(何だったのか)。宗教とは何な(何だった)のか。
物質的に豊かで便利になれば、人はあまり無茶をしなくなるし、精神も安定してくる。現代の先進国と言われる諸国においては、そういうことが言えるだろう。科学技術は宗教の一産物であるのかもしれないが、宗教それ自体が現代社会の安定を達成したとも思われず、人間の内面的な諸要素はほとんど変化していないか、場合によっては劣化してさえいる。
もちろん、信仰が人を救うものでもあることは充分に理解しているつもりである。
とはいえ、人間の信仰の帰結として、今の人類社会があるのだとすれば、それは大きな問題を孕んでいると考えるべきであろう。
キリストは、
「私の言うことを信じれば死後天国へ行くことができる」
と説き、ブッダは、
「私は、この世の苦界から脱することができた。私のようになりたければ、私の説く、この世の成り立ちに耳をかたむけ、私の言うようにしなさい。」
と説いた。
今の宗教団体は、どれもこれも、世界平和だの何だのと言っているが、キリストもブッダもそんなことは一言も言っていない。あくまでも「個の救済」を説いたのである。
それ以外のことは、後の世の、誰とも知れぬ人間達が屁理屈こねていろいろな文言を付け加えたにすぎない。
キリストもブッダも真理を知ったのであろうし、説くところの内容は人類にとって欠くことのできない重要性を持つ。 しかし、「宗教」は人類に上手く機能したと言えるのだろうか。
キリストは死後の救済を説いたが、死後救済される以上、少なくとも、生きている今の段階で、その予兆が感じられないようでは、効果的とは言えないであろう。
ブッダは、生身の人間の救済を説いたが、生身の人間が救済されていれば、人間はもっと豊かな存在になっているはずである。
これほど宗教に懐疑的でありながら、私は神道のことばかり強調している。
何か新しい信仰を始めたというのか。
自分が神道の重要性を強調する意味は、信仰という面からではない。
ひとつには世界を見渡すに、社会と人心を最も安定足らしめている先進国は日本以外考えられないということ。しかも日本人は、宗教的な強制を歴史的にほとんど受けていない。もちろん、儒教、仏教、キリスト教の教えは伝播し、さまざまな影響を与えはしたが。
これは日本にいるとなかなか分からない。最も書籍にはいろいろ書かれたものがあるが、過去の歴史を調べれば調べるほどに、現代のみならず、そういう感が強くなる。
海外から今だに社会の仕組みを真似ようとする知識人や役人が多いが、真似る前にまず、学ぼうとする国の社会状況、人心がどうなっているか、よく学ぶ必要があるだろう。
例えば、アメリカ社会の惨状は目に余るものがあるにも関わらず、相変わらず進んだシステムだとして、いろいろな価値観を取り入れようとする人たち。そういう価値観を役人やマスコミが取り込めば取り込むほど、日本社会もまた、複雑で病的な様相を現わしているにも関わらずである。
もちろん、先進国であれ、どこであれ、たとえ中国のような国であれ、我々が学ぶべきところはあるだろう。しかし、今日本人が最も学ぶべきは、自らの文化文明についてであって、それ以上に優先される価値観はないと確信している。
だから私は神道の重要性を訴えているのである。神道を信仰の対象として捉えるのではなく、社会を安定させるための重要な仕組みとして捉えている。
そして、もうひとつは、 神道は何も語らないからである。
言葉は人を多かれ少なかれ「洗脳」するものだ。 それ自体が本質や真理から乖離する結果をもたらす。
キリスト教、イスラム教も仏教にもそういう側面が明確である。特に信仰するもの全てにとって常にそういう問題が付き纏っている。
もちろん、私は個々の信仰は否定しないし、個々人の今の状況にあって、最も重要な事柄を含んでいるからの信仰であることも重々承知の上である。
私自身、今でもことあるごとにこれら宗教のメッセージから学んでいる。
しかし、結局宗教的な真理というものは、言葉に置き換えることは不可能である。それを言葉に置き換えると齟齬が生じる。
宗教は恐ろしいものにもなり得る。 宗教は本来人間の魂を解放することを目的としているはずであるが、現実的には、人間の魂の拘束衣となっている。そして現代人の多くは宗教の「麻薬性」と「拘束作用」に忌避感を感じているのだと思う。
神道は何も語らず、ただ神前にそのさわやかな「風」と「気配」を感じるばかりである。宗教的優越感や満足感とも無縁な世界である。
私にとって、神道はもっとも自由で開放的であり、ブレが少ない。
それが二つ目の理由である。
二つ目の理由は信仰上の問題と言えるかもしれない。しかし、信仰が言葉によってもたらされるものとするならば、私にとって、神道は信仰する対象ではなく、「感仰」であると言えるだろう。
(写真:ノアの箱舟by wiki)

