こういうタイトルの書籍がある。日高義樹氏の書籍だが、彼の書籍に関しては、この書籍及び、「アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相」の2冊は興味深い作品だと思う。
「なぜアメリカは二発の原爆を落としたのか」の冒頭、作者が在籍する、アメリカ合衆国のハドソン研究所内のある会議で、日本の憲法九条についての話になったとある。
以下、抜粋
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ワシントン代表だった、トーマス・デュースターバーグ博士が、「日本の平和憲法はどういう規定になっているのか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
私がこう憲法第九条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こう言った。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
これは非公式の場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
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そうしたのは、あなたたち米国だろう、と日高氏が言ったかどうかは分からないが、いずれにしても、それを受け入れ、今日に至るまで、それを国是にしてきたのは日本人の問題である。
海外の知見ある人たちが、今日の日本、とりわけ戦後の日本について、意見する場合、「上手く立ち回ってきた」という見方も多い。自分達は面倒なこと(軍事的側面)はせず、その役割をアメリカに押し付けて、経済に注力している。実に要領よくやっているではないか、という見方だ。これはしかしどちらかというと「好意的」な視点からの意見であろう。
ところが、日本国内では、「本気」で九条を信じ、あたかもそれがゆえに戦後の日本は平和を維持してきたと、まるで、自分の意思で自国の平和を築き上げてきたかのように信じている人たちがいることを知ると、驚きのあまり声を失うのである。「狂人か究極のお人良しか」、要するに「バカなのか」と。 戦後の日本はアメリカの保護下にあるから、平和的に推移した。というだけのことである。
日本は、古来から、世界史的に見れば、とびぬけて平和な先進国家であったと言えるが、その間、国防を放棄したわけでも、戦うことを放棄してきたわけでもない。
戦後日本の状況というのは、「自立か依存か」の二択の問題に過ぎないにも関わらず、国内的には、「戦うことを放棄すべきか否か」「平和の実現は戦うことを放棄することによるものか否か」という次元にフォーカスして世論形成されてきた。これも日本民族無力化作戦という、「占領政策」の一環でもあるのだが。
平和は自ら勝ち取ることによってしか実現されないものだ。ところがそういうことを知らない世代も増えているし、多くは感覚が麻痺している。 自立した国家でないということは、軍事的には言うに及ばず、外交的にも、政治的にも、経済的にも、独自の判断で行動し意思表明できない、ということだ。そういう意味では、現代の日本という国家の自立性は、北朝鮮以下と言っても過言ではないだろう。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
彼等の政策は実に効果的に推移してきたのである。
「麻痺」とは恐ろしい。
(写真:「リトルボーイ」)

