饒速日命は天孫族であるが、ニニギの系譜ではないように感じている。古事記、日本書紀の記述によれば、天孫族であるという。天孫族は多いのだと神武が言う。証拠を見せろと。饒速日命の天孫族であることは証明された。
『古代日本正史』を著した、原田常治によれば饒速日命は素戔嗚の子であると言う。この書物は古代史を語る上で大変重要な書籍であるが、この点についてはどうなのか。その後、この説は小椋一葉に引き継がれて、多くの古代史作家がこの説を踏襲したから、かなり通説(というか俗説なのかもしれないが)になりかけた。自分自分もあるところまではそれを信じていた。(原田氏は、神武陵は西都原古墳だというがこれもよくわからない)
しかし、全国の、特に出雲の素戔嗚系列の神社を巡るうちにこの説に違和感を感じるようになった。「違う」のである。
「天孫人種六千年史の研究」によれば、前出雲派と後出雲派があるという。この問題はこれに関係しているように思われる。要するに南九州から本州へは太古、二回の動きがあったということである。前出雲派の動きと隼人派の動きである。前出雲派は隼人同様、薩摩を中心とした地域と関係があり、後出雲派は、朝鮮ツングース族系列であると書かれている。神武は古代だが、これを含めれば三度ということになる。
どちらが、前で後かはさておき、出雲には二つの系列(あるいはそれ以上)があることを自分も感じた。
私の印象では、素戔嗚は「単独」の匂いがする。素戔嗚はどうもはっきりと分からない。他との関連性をあまり感じない神様だ。
その他の出雲系列の主要な神社、出雲、美保などの大国主系列の神社と、須佐、八重垣、日御碕とは明らかに違うが、佐太大社、揖夜(いや)神社、神魂神社などとも匂いが違う。ただし須佐系は大国主系列に比べれば、佐太に近い。大国主と素戔嗚が関係あるとは私には、ほとんど感じられなかった。
饒速日命は瓊瓊杵尊の兄であるというのは、先代旧事本紀には記されているが、これはあくまでも、象徴的な表現として用いられているのではないか。同祖であろうが、系譜が違う。こういうことではないのか。(戸矢学氏の著書では兄ではないのではないかと言う)
霧島神宮では通常の大祓などの主要神事と同格の扱いで、猿田彦命巡幸祭(東巡、西巡)が計4回行われる。瓊瓊杵尊にとって猿田彦が極めて重要な地位を占めていることが霧島神宮に行くとよく分かる。
これはもちろん、神話の記述によって、瓊瓊杵尊が天降った時、これを地上で出迎えて、日本国を道案内したことによるものだろうが。
サタ、サダ(佐太、佐田、佐多)は神社名、地名として九州、出雲に多い。大隅半島の南端に佐多岬、豊後水道に佐田半島、出雲には、佐太大社がある。また出雲の須佐神社の鎮座地は、佐田という地名(島根県出雲市佐田町須佐)だ。サタ、サダは猿田彦に関係がある。
私が南九州から宇佐を経由し、佐田半島へ渡り、伊予から、大三島を通過し、出雲の佐太大社へ到達した時、ひとつの流れがそこにあることを感じた。
佐太大社は、猿田彦が出雲における足跡であろう。
余談だが、大国主系でいえば、出雲大社よりも美保神社及びその周辺地域のに、より惹きつけられた。考えてみれば事代主は神道世界において極めて重要な神である。そういうことなのかもしれない。
さて、瓊瓊杵尊、饒速日命、物部氏など。猿田彦が道案内をした天孫族とは誰なのか。猿田彦は出雲を経由して、機内を通り、最終的に伊勢へ鎮座した。伊勢は起点ではなく終点ではないのか。個人的には、瓊瓊杵尊を猿田彦が導いたというのは、物理的な意味ではなく、「御魂」の移動ということではないかと、今のところ感じている。
「御魂の移動」すなわち「神輿」である。
そして、素戔嗚とは何者なのか。素戔嗚と朝鮮半島との関係性はどうなっているのか。
本書では、猿田彦は、セミチック・バビロニアンのシャール又はシャーイルが本義であり、シャールとは、王の義であるという。
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猿女君はシャーイルであって、神託を求める神職の名である。天岩戸の神がかり神話は符合する。<猿女氏 下記注1> 猿女の名の猿田彦神と類語たるによりて、後世迷誤してこれに関する新神話が構成されるにいたった。
本来猿田彦のサルはセミチック・バビロニアンのシャールまたサルで王の義。海神の衛神を伊勢山田に神の王として祀った名称である。しかし、これをチャム系古国語のサッダルという先駆の義に誤解した。
天孫族である尾張連、吾田の小橋君は、ウバリの変、神奴の長の義で、神奴たる隼人等を率いて天孫及び神明に奉仕する名である。原田敬吾氏によれば、中臣はナグツアールで神供を掌る神職、忌部はエンベルで祓詞を読む神職、大久米命のクメはスメル語の武具の義で武人のことである。
ことに皇室においては、本来海神たるヤーの神、日神たるウツの神、火神たるアグの神、御食津神たるナグの神、草薙剣たる軍神アッダド等を並祀せられた。
崇神天皇の朝に諸神を宮中より分離し、日神、火神、御食津神、軍神等を大和国笠縫邑に、海神を大市の長岡岬に、ついで大和邑に遷され、垂仁天皇の朝に日神をば倭姫命によりて、本来伊勢宇治土公<宇治土公 注2>が日神を祀る宇治に鎮座せしめられた。この日神の鎮座地に更に皇室の日神を鎮座せられたる、偶然の事実を、古典には幽契神話として構成されるにいたった。
当時伊勢山田には本来宇治土公によりて海神たる衛神が祀られ、この神は垂仁帝の朝に至って、威をふるう宇治土公と共に没落した。最初は海神が祀られていたが、海神の信仰が衰え、雄略天皇の朝、皇室に祀られていた、御食津神奈具の神鏡を大和三宮より山田に移祭され、さらに後世、チャム語即ちマラヨ・ポリネシア系の国語の御食津神たる豊受姫神の名を以て申されるにいたった。
古来大神宮の祭典にまづ外宮を祭祀せられ、また天皇皇后両陛下がまづ外宮に御参拝される理由は、本来外宮―海神名である度会宮は、日神の御親神たる海神の祀られたるに原因する。
我が国の神話に日神は伊弉諾神の子とされている。淡路伊弉諾神は本来海神なるが故に一致する。
バビロニア人の宇宙観として、天海地の三界あり。天神アヌは最古の神であるが、海の世界より地の世界と太陽界とを生じた。すなわち海神ヤーは地神エンキの神徳えお兼ね、後、分化して地神エンリルの父 - 大地の母神となり、又日神ウツの父神であった。我が国の神話に淡路伊弉諾神がまづ地神を生み、最後には日神を生まれたという思想と符合する。
かくて、奈具神を豊受姫神に変称された時代において、ウツの神を倭人語、韓語、チャム語等の混成国語を以て、大日靈貴(オオヒルメムチ)とも天照大神とも称へ奉るによって、天孫人種の言語は裏面に埋没するにいたった。
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注1> 猿女君(さるめのきみ・?女君)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。アメノウズメを始祖としている。姓は君。
日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明している。実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。
本拠地は伊勢国と想定されるが、一部は朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。
他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあった。(wiki)
注2> 宇治土公とは - 日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。倭姫命世記によれば、その子孫の大田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。(wiki)
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(写真:一枚目 – 佐太大社、二枚目 – 佐多岬から佐太大社までの地図)

