ドイツやオーストリアの田舎を電車で走っていると、やがてあることに気付く。景色の隅々まで人の手が入り、作りこまれているように感じるのだ。ここにはこれがあり、あそこにはあれがある。全て決まっている。規則通りに町が設計されており、どの町も全て同じ風景なのだ。全く隙間というものがない。
最近の日本人の多くが、戦中期の日本を当時のドイツと似たような社会だったと考えるものがいる。我々には似たところがあるのか。
結論から言うと、日本人とドイツ人は真逆である。
ドイツ人は、規律や規則に忠実であろうとし、ゆえに機能的な国民性であり、社会生活全般にイズムが織り込まれている。規律、規則、機能性だ。
日本人は、雰囲気で動き、イズムは考えず、感覚で動く。共時的であることが好きだから、規律は自然に守られており、規則がなくても機能的に社会が動いているように見える。いや世界でも類例がないほど規律が守られた社会である。
ドイツには、世界的な思想家がいるが、日本にはそもそも思想という概念が希薄だ。思想はなくても、機能する社会だからだ。少なくとも今までは。
神道に教えがないのは、そもそもそれはそれほど必要なかったからかもしれない。 「日本人には、考え方が極端から極端に行くところがある。」 と、およそ400年ほど前に、ザビエルが往復書簡の中で語っているから、おそらくこれは日本人の気質なのだろう。今でもそういうところがしばしば見受けられる。
戦後、日本人の多くが戦前を全否定した。全て悪だと。全部間違っていたかのような、日本そのものを全否定するかの勢いであったが、最近では、戦前は何一つ間違ってなかったと。全部正しいんだと。そういうテイストの人がいる。
このような態度も、一種の雰囲気の中で行われる挙動言動であり、戦前と戦後の厳密なる精査を意識してのことでは、必ずしもない。
ものごとには全て、光と影がある。日本人は光を見ると光しか見ず、影を見ると影しか見ないというのか。
極端から極端にいくという気質が、「全体主義的」だと感じられるところもあるが、基本的には雰囲気でそうなっている。「流れ」だ。
流れが来るとそれに全員で乗る。魚のように。
ドイツ人はこういう根拠で動かないだろう。何かに従うためには、必須条件となる規則とイズムがなければならない。規則あっての規律である、それによる機能的社会の実現である。
さて、思想は重要か。人は思想、イズム、規則によって、律せられるべき生き物なのか。
ある能力の非常に高い人物がいるとする。例えば、イチローのような。
ある人物が、彼のことを徹底的に分析して、5000ページの大辞典を作ったとしよう。この書物を読めば、イチローのことは全て分かるようになっている。
作者はこの書物を隅々まで記憶している。
しかし、彼がイチローのような能力を発揮することはないだろう。
イチローは5000ページの彼自身の資料を記憶しているわけではない。しかし、彼はイチローである。
聖書を読んでも我々はイエスにはなれない。宗教の本質は「体験」であり、「全身全霊」で感じることである。これを書物に記載することもできないし、記載したものを読んでもそれを手にすることはできない。もっとも聖書は人がイエスになるための書物ではないけれども。
神道に教えはない。
私は、神道には教えは必要ない。と考えている。
神道は「体験」するものであり、「全身全霊」で受け止めるものだ。
日本人の気質とドイツ人の気質の違いと、こういうこととは非常に関係があるのである。 日本にナチスのような政権が誕生する確率は万にひとつもないだろう。
(写真:ナチス党大会)

