オランダ、ポルトガル、スペインなどが、植民地帝国主義的な概念を手に世界を席巻し始めて以降、今、はじめて、彼らは守勢に立たされている。
日本の幕末以降の伸長から、彼等の概念は緩やかに侵食されてはきたものの、これまでは圧倒的な影響力を誇示し続けてきたといえるだろう。それが、2016年を境にして完全に変化したということが言えると思う。
もともとは、キリスト教世界の中でのみ通用するはずのさまざまな概念や価値観は、彼らが世界にその影響力を増してゆくにつれて、拡散されつつ、さまざまな文明や民族、人種と接触する中で、その意味も拡大解釈されてゆく。
それは時に、接触する文明の破壊や殲滅をも意味したし、日本もその例外ではない。
そこで彼らが持ち出してきた概念が、「平等」「人権」などの言葉や、それらの標語的概念の拡散であろう。これらの言葉もまた、本来は彼等の社会の中で重んじられる一つの概念であったが、これらを平板化、単純化した上で、自分達が構築してきた西洋中心の社会を安定化させるための一種のツールの役割を持つことになる。 これは、彼らの影響力が拡大し続ける前提では、何の問題もなかった。自らの文明に勢いがある時には、自分達の主張は、そのまま、世界に対して最大限に支持され続けることを意味したからだ。これまでの世界においては、平等という概念も、西洋的価値観の拡散と親和的に推移したのである。
イケイケドンドンの時とはそういうものだ。日本のバブル時代のように。どれほどのヒズミが内在していてもあまり問題にされることはない。
しかし、その、彼等が「制定」し、世界に訴えてきた概念が逆に彼等の文明を破壊しようとしている。ミイラ取りがミイラになったのである。ヒズミが表面化したのである。
キリスト教や、イスラム教、ユダヤ教などの旧約文明の下で思想形成、概念形成されたものは、意図するしないにかかわらず、唯一神教的なものになる。
この世には唯一絶対なものがあり、それにそぐわないものは、滅びゆく運命にあるのだ。
それに従わないものは、滅ぼされてもかまわない。いや良いのだ。
一つの教えが人類を支配することはあり得ないことは現代に至って、ようやく理解され始めたことである。
こうなると、彼等の生み出したさまざまな、概念や価値観は自己矛盾を起こし始めざるを得なくなる。ましてや、自分達の文明としての勢いが低下してきた段階においては、より鮮明にその問題が表面化してくるのである。
今起きていることは、そういうことだ。 多様性を全く否定する文明によって生み出された概念が多様性と親和性があるはずがない。今までその矛盾を引きづってはきたものの、勢いの強さの中でそれが相殺されていただけのことである。
新しい概念が今、必要とされているが、それは、唯一神教的思考パターンの文明からは、決して生み出されることはないだろう。
幕末以降に日本が、何となく、無意識に、世界にデビューし始めた意味というものの、本当の意味あいを、日本人が考えるべき時にきていることは疑いようもないと私は考える。
日本の時代は終わった、とかいう悲観論者の言うことは間違いであり、これからが真価を問われるべき時に来ているということが言えるだとう。
しかし、経済に執着していては、そこのところは見えてこない。
(写真:嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ from wiki)

