よく神道はもともとアニミズムであって、自然神をお祀りしていた。
として、自然や自然神だけを見て行く考え方がある。
私はいくつもの神社を巡り、神域の森林を見る。
良い神社は必ず森林が良い。
これは例外がない。
従って、神域内の森林を非常に重視している。
もちろん、森林だけではなく、水、岩などの要素も見ていかなくてはならないが、森林或いは木々のない神社はないのでまずそこを見て行く。
神聖な場所の森林は良いから、普通の森林、要するに神社などがない場所の森林でも、清浄な空間があれば、そこにある森林もまた非常に良いものだと考える。
そう思って、神社などがない場所の森林も見て行く。
そしてわかったことだが、普通の森林で非常に清浄な、研ぎ澄まされ、洗練された気に満ちている場所は極めて少ないということであった。
自然のみで形成される清浄さという意味では、明らかにそれを感じたのは屋久島の縄文杉の周辺。しかし、あの場所も人が多く訪れ、神社で参拝するのと同じような空間が形成されている。
しかし、そういう場所は稀である。
神聖さというものは、人が介入して初めて整えられて行く。
人間が魂のレベルから思いを寄せる場所には、大きな力が、神聖さがそこに蓄えられるのである。
自然霊を大自然の中だけで感じる世界観は不確実性が伴う。そこにいる自然霊は余程の空間でないと同じ場所には留まらないだろう。
スーパー大自然、あるいは絶界のような場所にはあるかもしれないが。そのような場所に聖堂などが建立されている場合もある。
整理されていない自然空間には、自然霊を含めてかなり雑駁とした感じがどうしてもある。
そのプリミティブさが良いという人もいるかもしれない。それはそれで良いと思う。
しかし、「神域」という世界観は人がその気持ちを向け、神霊がそれに応え、自然霊や人霊もまたそこで磨きをかけて行くという状況があって初めて整えられるものだと感じるのである。
これは、人間という存在の不思議さでもあり、大いなる可能性でもある。
同時に、聖域が、建造物と周囲の自然、木や森や水や岩などとが一体となって形成されているというのは日本においては普通であるが、世界に目を向けるとそうでもないことが分かる。
例えば西洋では、聖堂の中の空間は重要であっても、必ずしも周囲の自然が聖域と一体化しているという発想は感じられない。東洋でもそうだ。聖堂や寺院が木や森に囲まれているという印象がない。
絶界のような場所には寺院や修道院などがあるということはあるけれども。
明治神宮のような都会の真ん中にあのような空間が成立していることは日本以外では稀ではないか。
これは日本文明を見て行く上で重視しなければならないところである。

