元寇といえば、神風が吹いて元・高麗軍を海辺で撃退したという印象だ。
一般に戦が起こったのは博多付近だと思っていたが、よくよく考えてみれば、対馬は日本よりも朝鮮半島に近い。
対馬ではどうだったのか。
調べてみると驚きの事実。
以下、産経新聞の記事より。
「相次ぐ残虐行為
このような行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。
壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。」(http://www.sankei.com/smp/west/news/140614/wst1406140068-s.html)
博多でも同様のことがあったという。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、小早川隆景が戦地から家族に宛てた手紙が残っている。
そこでも、朝鮮半島の戦争が日本のそれよりも比較にならないほどに凄惨で、気分が悪くなったと書かれている。
日本では武士同士が戦うことが主で農民や商人は握り飯を食いながら見物したという記述も残っているほど。
しかし、大陸や半島では、住民は女子供に至るまで皆殺しかそうでなければ奴隷である。
女子供が串刺しにされたり、股裂にされたりというのが普通らしい。
それが当たり前だから、第二次大戦の際も、日本軍も同じことをしたと彼らは騒ぐが、実際は違う。もっともどんな国にも気狂いみたいな人間がいる。
そういう狂った連中もいたかもしれないが例外的だろう。そもそも日本には戦の際、そういう習慣がなく、日本の過去の歴史書にもそのような記載はあまり見られない。
あるとすると信長の一向宗との戦い、徳川幕府と天草・島原でのキリスト教徒との戦くらいだろうか。宗教が絡むと戦は凄惨になる。
それはさておき、
元寇の際、博多での戦で、当初、当時の鎌倉武士はいちいち名乗りを上げて突っ込むというような戦法だったため、集団戦法の元・高麗軍に撃破され続けたという記録が残っているようだ。
「我こそは源の?」
などと言って一騎づつ突っ込むみたいなことでは勝てるわけがない。当時は敵には鉄砲や爆薬のような兵器もあったようだ。
日本軍の戦法はやがて変わったと思うが、日本の武士は命を惜しまず勇敢であるという記述があちらの歴史書にも記載されているらしい。
それはともかく、壱岐・対馬での凄惨な戦争についての歴史は見ておいた方が良いだろう。
写真:壱岐神社3枚、弘安の役瀬戸浦古戦場址3枚、少弐の千人塚2枚








