右翼の定義
右翼とは何か?
一水会の鈴木邦男という人が右翼についてこのように定義している。少し長いが引用してみよう。
「右翼とはいったい何なのか。『俺こそが日本人の典型だ』と思っている人が右翼だ。だから、いつも《日本》にこだわっている。天皇制を初め、日本の文化、歴史、伝統に愛着を持ち、それが侵されそうになったら命をかけても守る。テロやクーデターに訴えても、この日本を守りたい。そう思っている人々だ。日本が危機的な状況の時には、そんな人々が決然と立って国を守った。楠木正成、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、、、。こうした人々は右翼の先輩だ。でもちょっとややこしいがこういう人たちは自分のことを「右翼」とは思っていない。「右翼・左翼」と言う言葉は大正時代に外国から入ってきたからだ。では、松陰、竜馬たちは自分のことを何と思っていたのか。「草莽(そうもう)の士」と呼んだ。在野の一人の日本人だと思っていた。それでいいはずだ。ところが、「日本人の典型」が今や右翼と呼ばれている。」(出典「日本の右翼と左翼」宝島文庫より)
この論からすれば、私は疑いようもなく「右翼」だ。少なくとも95%以上は一致している。
しかし、私は、テロは容認しない。
なぜなら過去の歴史に検証して、テロリズムと呼ばれるものが、結果的にその国、国民、民族にプラスになったと考えられるケースがあまり見られないからである。
テロの定義は広い。明治維新を行った主導者達、例えば、西郷隆盛とか桂小五郎や坂本龍馬のような人々を「テロリスト」だと言う人が最近ではいる。
しかし、テロリズムとは基本、彼ら自身の目的を完遂するために、無差別に民衆や特定の階層の人間を殺戮することを厭わない思想であるとするならば、むしろ、スターリン、毛沢東、ポルポトのような左翼社会主義・マルクス主義者のほうがはるかにそれにあてはまるだろう。
彼らがこの百年に行ってきた殺戮と虐殺は1億人を超えている。しかもほとんどが、自国民であり、同じ「同志」達である。しかし、そこで左翼の人々はひそかには思う。
「これはプロセスだ。理想の達成にはやむを得ないことだったのだ。」
朝日新聞の「左翼的な」一部記者たちのような連中は今でもそう思っているかもしれない。
あの虐殺を「プロセス」と呼ぶならば、ヒトラーのユダヤ人虐殺も「プロセス」である。ナチスにもナチスなりの理想の達成という目的はあったはずだから。
しかし、ナチスのユダヤ人虐殺が仮に600万人を超えていたとしても、共産主義者からみればかわいいものだ。さすがのヒトラーも一億には遠く及ばない。
だから私は日本の左翼連中(いわゆるリベラル左翼)が「反戦平和主義」を唱えているのをみると虫唾(むしず)が走るのである。戦後日本の左翼的な社会風潮を象徴する言葉を一言で言うならば、私は「偽善」もっと言えば「詐欺」という言葉が適当だと思っている。
ではヒトラーは「右翼」なのか?
右翼という言葉の定義には「反共産主義」が含まれる。その意味では彼らは右翼であろう。しかし、ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」である。
ファシズムというのは、極右にも極左にも起こる現象であり、ナチスだけでなく、ソ連にも中国共産党政権にもその定義はあてはまる。
国家主義と左翼社会主義が結託すると、極右になる。国家主義ではなく、民族主義に差し替えられることもある。
一般的に、共産主義、社会主義というのは、グローバリズムであり、これは西洋キリスト教的な「一神教による全世界的布教活動の推進」、すなわち一つの価値観、ひとつの柱によって世界を席巻する、単一主義、という理念からの思想的影響を無意識的に受けているものと思われる。これを文明の同一根と呼ぶこともできるだろう。
共産主義・社会主義者達が自らの目的達成のために階級闘争を行い、そのために邪魔になる人間たちを虐殺したように、ナチスは民族主義という目的のために、異民族を虐殺したのである。
『今やユダヤ人に圧迫された我ら優秀なるドイツ民族は、今こそ立ち上がらければならない!ユダヤ民族を粉砕せよ!』
これがナチズムの基本であろう。
ナチスの民族主義には極めて「階級闘争的」な意味合いを孕んでいる。虐げられたドイツ民族とそれを抑圧搾取するユダヤ民族という構図。
その意味で、ナチスのような極右政党は社会主義、共産主義の「亜流」だと私は思っている。ヨーロッパ的、西洋的な定義においては、右翼も左翼も同じ穴のムジナのような部分がある。
このような現代西洋的な定義からすれば、私は明らかに右翼ではないし、そもそも日本における右翼という定義はこれとはかなりかけ離れている。
もっと言えば、日本においては、西洋的な意味あいの右翼というのはほとんど起こりえないだろうと私は思っている。
現代日本史上において「オウム真理教」だけは異色である。彼らは右翼にも左翼にも定義されないが、麻原彰晃という人物を絶対専制者にしたかったはずである。その目的のために日本人を無差別に殺戮することを厭わなかった。彼らは全く「日本人的ではない」人々である。多分本質的に日本人ではないだろう。彼らは非日本人的なテロリスト集団であった。
ネット右翼というのがいる。
これは多少西洋的な右翼思想を含んでいる。過激なまでの中国人、朝鮮人批判があるからだ。しかし、彼らはナチスのように残忍にはなれないだろう。それほどの理念もない。何か憂さ晴らしのようにしか見えない。彼らには階級闘争的な「理念」や「目的」があるわけではなく、要するに「腹に据えかねている」だけだからである。
もちろん、私はネット右翼でもない。だから文化右翼を自称している。
西洋的な意味での右翼、極右は、王制を打倒する。ナチスはカトリックと手を結んだが、自らを絶対的な支配者、「専制的指導者」になった。専制的という意味では北朝鮮の「金王朝」とヒトラーは同義である。もちろん、ソ連共産党も中国共産党も同義である。
日本には祭祀王たる天皇がいる。だから日本の右翼は決して「専制者」にはならない。階級闘争のための「虐殺」や「屠殺」も起こりえない。
従って、日本の右翼というのは、極めて文化的であり、文明的な意味合いが含まれるのである。世間一般の右翼と日本人の定義する右翼とはかなりかけ離れているのである。
日本の右翼とは、「理念」で動くのではなく、むしろ「任侠道」とか「義侠心」という言葉に近いものがある。
(写真 後醍醐天皇画像)

