神も仏もあるものか!
とは日本人の捨て台詞かもしれねが、イエスキリストも同じような台詞を吐いている。
「エリ エリ レマ サバクタニ」
十字架に磔にされたイエスが天に向かって投げかけた言葉である。イエスの遺言かもしれぬ。
我が神よ 我が神よ 汝はなぜ我を見捨て給う
神の子イエスも父なる神の真意を理解できなかった。理解できていればこんな台詞は吐かない。
これはイエスの「人間臭さ」を知る重要な手がかりであろう。
イエスは神に見捨てられたのか?
ならばキリスト教の信者とは神に見捨てられた人間の言葉を信仰しているというのか?
キリスト教学上は、イエスの復活を持ってこの疑問に終止符を打つのだろう。神に見捨てられていなかったことの証明ということか?
弟子達はイエスの復活を見てイエスの存在を再認識することになる。これをもって彼らは真の信仰に目覚めたとされる。
これは「顕現」ということだ。
後世の人間はこれを肉体を伴った復活だとか、実は生きていたんだとか様々「物質的な」解釈をする。
これは霊体が人の形を持って顕れたということだ。弟子達の前に「生前の」姿を伴って顕れた。
「私の言葉を信ぜよ!」
そういうことだろう。悲劇の死は悲劇ではないのだと。私は神と共にあるのだと。
人の心も碌に読めぬ我々凡人が、まして神の真意をや。
我々日本人も日々様々な神々と関わっている。
まるで真意の見えぬ「神々」などという存在と関わることに意味があるのか。人は思う。
意味があるのである。
それが魂魄の人の性であり、それなくば生きとし生けるものに列することができないということである。
しかし、このことは我々凡夫には難しい話ではある。難しいからただ手を合わせ祝詞を唱えておればよい。
神恩感謝 国土安穏 と

