インド思想の空理論についての文書を見ていたら、まことによくできた詩編があった。
『ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり』(『愚管抄』慈円)
世の中は変転極まりなく、うつろい、ひとところに留まるものはなにひとつない。
西洋のギリシャ哲学による論理学は、『ある』か『なし』かである一方、インド哲学では、『ある』でもなく『ない』でもない。
これあるによってこれあり これなしによってこれなし
という。これが『空』のこと。『空』は『無』ではない。『無』ならば『なし』ということだ。
『空』とは常に移り変わり、同じものはなく、留まる形はなにもない。結んでは解け、解けては結ぶ世の仕組み。
日本の武将・武士には空観があった。
『人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび 生をえて 滅せぬもののあるべきか』(『敦盛』信長が好んだという)
『露と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華のことは 夢のまた夢』(秀吉の辞世)
『嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空』(家康の辞世)
それに比べると藤原道長は全く違う。
『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』
こういうのを何的というのか。
道長はさておき、日本の支配階級のある種の潔さというのはこう言うところにあると思うが、西洋でも、中国や朝鮮半島にもこう言った感覚があまり感じられないように思う。
(写真 慈円 wiki)

