歴史は同じことを繰り返すが、どんな歴史にも核となる源泉が必ず存在する。その源泉から次第に雪だるまのようにその後の要素を付け加え、表面的には形を変えつつ次の歴史を形成していく。
古代史を見ていると、同じようなストーリーが出てきて、しかし名前が違う。ということがしばしばある。
伝わった地域が違うと、人の名前が変わることもあるだろう。だから、歴史家はしばしばそれを同じ話だとして片づける。
そういう側面もある。しかし、歴史は同じ事象を繰り返す、ということをしっかり認識する必要がある。
現在の鹿児島県に起こった日向系勢力が、現在の島根県にある出雲勢力と向き合うと、国譲りが起こるが、一部反乱軍は東方へ逃げる。今の諏訪である。
初めは敵対していた、日向、出雲の勢力はその後和合して、大和中心部へと軍を向ける。
連合軍は、大和勢力に国譲りを迫り、大物主は了承するも、長髄彦は反乱し、東方へ逃げる。今の東北地方へ落ち延びたという説がある。
日本の場合、大きな政変、政権の交代などが起きる場合、必ず西から起こって東を制する。そして旧勢力は東に逃げる。これが定石で古代から現代にいたるまでこれを繰り返している。
足利氏は、東から西なので、違うようであるが、尊氏は一旦敗退して九州へ落ち延び、兵を立て直して東へ向かうのでやはり定石に従っていると言えるだろう。
徳川は東から西向きの勝利で異色だが、権力の基盤を整えたのは、西の三河から東の江戸へ向かってのことであり、源氏が西から東の鎌倉に拠点を移したのと似ているだろう。奇しくも頼朝が生まれたのも家康と同じ愛知県である。頼朝もまた西軍の平氏を破ったが、その後仲間割れが起こり、義経は東へ向かった。
古代から現代に至るまで、権力の基盤は、室町時代を除き、しだいに西から東へと移動している。しかし、この法則が将来も続くかどうかは何ともわからない。
鹿児島にあった薩摩勢力が、敵対していた山口の長州勢力と和合して、江戸へと向かう。この図式は古代の日向、出雲勢力が神武東征した経緯と全く同じである。
明治維新は古代の日向、出雲、大和に起こった事象の繰り返しの現象であることは明らかである。明治維新においては、かつての神武天皇のように、明治天皇という存在を大きく浮かび上がらせることになった。ある種の復古だと言えるだろう。
このように見て行くと、古代日本に何が起こったのか。国譲りとはどのような背景を持ち、経緯を辿ったのかはおのずと想像することができる。
徳川慶喜が、大政奉還したというのは、国譲りそのものであって、出雲や大和で起こった国譲りの経緯と差異はないものと判断する。
古代大和の支配者の目線から見た時、西からやってくる勢力には何等かのシンパシーがあったに相違ない。同時に現政権の構造的欠陥も支配者の目線からみて明らかであったのかもしれない。
ただ、明確に言えることは、古代から現代にいたるまで、日本の国土に出現した支配者、特に大きな政変が起こる時、交代の役割を担う支配者が基本的に賢明であったことだ。自分の権力や利権にしがみつき、どんなことがあってもこれを手放さないという欲があったなら、「国譲り」は起こらない。
国譲りが起こらなければ国土の分裂が起こり、とてつもない怨念が残ることになるだろう。それは最終的に、朝鮮半島のような国家分裂を引き起こす元凶になる。
とはいえ、支配者がかくほど賢明であっても、それに従う忠誠心の篤い人々は、そんなもの分かりの良さに我慢できない。かつて、建御名方や長髄彦が東へと向かったように、会津、長岡らの旧幕臣達ら一部勢力もまた東へと向かう。東の果ての函館まで。
支配者にさほどの怨念は残らないが、下で忠誠を誓う者達の怨念はかなり長い時間尾を引く。どれほどそれが長いのか。それは、古代から現代まで繋がっている。
魂の源泉は同じだと私は思っている。理屈ではないのだ。だから同じことが繰り返し起こる。
しかし、そういう時、日本人はその解決法を持ってきた。
怨霊の御霊鎮めであり、その代表が出雲大社ということになる。
大きな変動が起こる時、多くの報われぬ魂が必ず出現する。
そういう時、我々日本人は、怨霊の御霊鎮めという、優れたシステムを思い出す必要があるだろう。このような考え方は世界の他の文明にほとんど見られなものだ。だから世界史の中で見ると日本は格段に人の心が荒れないのである。
このことを日本人は決して忘れてはならない。これは日本文明の智慧の結晶である。

(写真:出雲大社 大政奉還の図 )

