仏教はそもそもインドにおいて、ゴータマブッダが、人間に存在する煩悩、執着、業を脱して、人間の魂として再び現れない、あるいは六道輪廻のループから脱するための修練法を解き明かしたことを始めとしている。
所謂「解脱」のためのプロセス法である。
その故に本来は、信仰を軸とした宗教というよりは、現代風に言えば、メソッドというにふさわしい。
そしてもう一つは、それ(解脱)を実現するために学んでおかなければならない、縁起の法という、物質と意識の成り立ちとその循環を凝視するための、哲学体系を持つ。
この解脱への修練と縁起の法という、二つをあらわしたものが仏教であるが、それらを習得実践することは、凡夫一般の人々には極めて困難であるから、これを「信仰」という体系に練り直したものが、大乗仏教であると言えるだろう。
簡単に言えば、仏様を信じれば、やがて解脱にいたるであろうという。
しかし、その中には、禅であるとか、仏教以外の土着の宗教と習合した密教であるとか、「信仰」と「修練」を併せ持った性質のものもある。
日本には、主にブッダのオリジナル仏教(一般に上座部仏教と言う)は明治以降まで流入せず、支那経由の「中華仏教」として流入したのである。
日本に流入した仏教は、日本文明の中へしだいに溶け込み一体化した。
日本仏教はその意味でオリジナルの仏教とはかなりかけ離れた、日本教と言ってもよいくらいの変質を国内で遂げたと言えるだろう。
極めて俗な言い方をすれば「ラーメン」と同じである。
仏教勢力の中には、両部神道なども生まれた。それによれば、日本の神々もまた仏教の教えを聞いて「解脱」を求めているのだという思想に基づいた、「仏主神従」の思想があるが、この考え方は日本文明に反する一面がある。
仏教はあくまでも、日本文明の中に取り込まれ、溶け込み一体化したものの一つだと考えるべきである。
法華神道の三十番神図というものもあるが、仏教からのアプローチとしては、こちらのほうが日本文明の視点からしてスムースである。法華経を守護する神々として、日本の神々をそのまま表している。(両部神道は日本の神々を全て仏教の化身に差し替えて表現する)
あまりに宗教的なアプリーチになるので、細かく書くことは控えるが、日本の神にもいろいろあり、人霊もいれば、神霊もいる。
人霊によっては、仏教的な哲学や手法を必要とする場合もあるかもしれない。
しかし、仏教の創始者である、ブッダにせよ、人霊の域を脱したばかりの、神霊界の中における、「入門者」に過ぎない。ブッダが神々の最上位に位置することはあり得ない。
仏教は、日本文明にあって、極めて重要な価値観の一つを付与し、より緻密で豊かな価値観を付与したことは間違いのないことであるが、あくまでもファクターの一つであり、それは飛鳥以降の中国文明、主に明治以降の西洋文明を日本文明が取り込んだことと同義である。
日本文明の視点からすれば、あくまでも「仏主神従」ではなく「神主仏従」としなければならない。
仏教勢力が異常に勢力を増す時、日本国内は政治的に乱れ、荒廃する。時として織田信長のような人物が現れてそれらを掃討するようなことが起こるのである。
日本はあくまでも神国であり、仏国土ではないと心しなければならない。

(写真 法華神道三十番神図―日蓮宗 海秀山 高岡大法寺HPより、両部神道金剛界曼荼羅図 wikiより)
