父親はもう6年ほど前に他界したが、父親の兄が先日100歳で他界した。
父親の兄弟は5人ほどいたが、この二人は非常に仲がよく、自分の幼い頃、名古屋から大阪の茨木という兄の住む場所へ幾度となく訪れた。
真夜中の11時頃に到着してもう、みんな寝静まっているのに、玄関の扉を叩いて訪問する。幼い私も母親も恐縮して、止めた方がいいよ。と言っても
「大丈夫だ」
と聞かない。
今思えば随分兄貴のことが好きだったんだなと思う。そういう兄弟関係は珍しいらしく、今回の伯父の葬式でも、ほんとうに仲が良かったよねと話しあっていた。
伯父と会った一番最後の日の記憶だが、当然父親の話になり、晩年、横須賀の軍港が見える高台のマンションに引っ越して5年ほど暮らした話をした。
ベランダから、横須賀の軍港が一望できて、米軍の空母が入港するのも見えた。その話をすると伯父は、
「そんなもん見たら、あいつは随分腹を立てただろう。米軍に横須賀が占領されて、悔しいよなあ。」
そういった。自分はそれほどのこともなく横須賀の軍港が見えて、大きな軍艦が行き来するのを目にすれば喜ぶと思っていた。でも伯父の話を聞いて、そうか。そうだよな。と思ったものだ。
父親はそれを見た時、少しだけ喜んだが、
「あれは確かに大きいな。大和くらいはある」
と乾いた口調で言ったことを記憶している。
ある日、父親を横須賀の「軍港めぐり」という軍港内を船で巡るコースがあり、連れて行った。
その時、父親は確かにこう言ったのを覚えている。
「こうしてみると、いい場所は全部アメリカが獲ってしまったな。海上自衛隊が今いる場所など戦前は、小さな船が停泊するだけの隅っこの場所だった。」
不思議にも戦後教育とは全く無縁に育った自分はそういう話ばかりを聞いて昭和から平成を生きてきたように思う。
葬式が終わり自宅に戻った今、映画などを見ていたら、島尾敏夫という名前が目についた。
島尾敏夫とは昭和の小説家であるが、「死の棘」などが知られており、戦時中、震洋というボートに爆弾積んで突っ込む特攻隊に配属されたことで知名で、この小説もそういった経緯を絡めながら、病に倒れた妻を看病する、いわゆる「病妻物」というカテゴリーを作ったのである。
自分の名前が公洋という名前だが、恐らく父親の脳裏に震洋があったんだろうと思う。
戦時中、震洋部隊の隊長になったことがあるからだ。
そういう記録があるかと思いネットで検索してみると、それはなく、ただひとつ、国立公文書館のデータとして以下の記録だけが残っていた。
父親の辞令の下に朝鮮人の士官の辞令も含まれていた。朝鮮人も戦時は共に戦っていたのだということがこれでもわかる。
瑞穂というのは、水上機母艦と言って、水上機の母艦であるが、確かに生前、この船に乗っていたことがあるという話を聞いたことがある。
恐らく、この辞令の後に金剛という艦に転勤になったものと思われる。
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作成者 海軍大臣官房
自昭和17年4月 至昭和17年6月 海軍辞令公報
聯合艦隊司令部附ヲ命ス 瑞穂乗組海軍少尉候補生 〇〇(父親の氏名)
佐世保第一海兵団附ヲ命ス (各通) 妙高乗組海軍少尉候補生 〇〇(朝鮮人名)

