足利直義墓のある尾根伝いにぐるりと回ると護良親王墓がある。明治になって創祀された鎌倉宮はちょうど墓下にあるが鎌倉宮の境内地にあった岩窟牢に親王は幽閉されていた。
さて宮の墓は宮内庁管轄だがいつもの木製の案内板は見当たらない。
長い石段が二つ続き、さらに中程度の石段、さらに短い石段のその上に墳墓があるが最期の石段は登れない。
墳墓の周囲にある石の囲いが半ば崩壊しており、あまり良好な管理状態にあるとは言えない。
もちろん参拝者の人影もない。空はどこまでも青く爽やかな風が流れていた。
まるでピラミッドのように高い高い場所にある墳墓だが、墓所をすぐ出た所に石碑があり、以下のように書いてある。
「ここは元、理智光寺の跡である。建武二年、伊賀守義博は足利直義の命をうけて護良親王を誅したが、その生首の表情があまりに恐ろしい形相であったので恐れをなしてその首をこの辺りの藪中に捨て去った。その後寺の僧侶がこれを拾い山上に葬った」
事実とすれば恐ろしい話である。
その後の直義の運命を見れば、親王の呪いは直義にかかったのだと言えるかもしれない。
鎌倉宮は明治天皇の発意により創建されたが、宝物殿には伊藤博文、徳川斉昭、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟らの書があるという。
これにて、想定外に導かれた小さな旅が終わった。
平成の最後、令和を前にして、日本列島を文字通り分断し、それまでの「日本」を崩壊させた室町期の「確執御三家」とも言える御霊に手を合わせることができたのは意義あることと思う。












