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佐渡 順徳天皇の思い 「およそ天皇とは、神事を先とし、他事を後にする」

令和元年5月26日 日本史
佐渡 順徳天皇の思い 「およそ天皇とは、神事を先とし、他事を後にする」
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義時追討という、承久の院宣を発したが、北条氏に敗れた後鳥羽上皇とこれに従った順徳上皇は、それぞれ隠岐、佐渡へ遷幸(配流)となった。後鳥羽上皇の決意に積極的ではなかった土御門上皇も自ら土佐(後に阿波)へと遷幸する。

三上皇はいずれも当地で崩御された。順徳天皇は、佐渡で二十年以上の長い期間を過ごすことになる。

佐渡における順徳天皇の公式記録は少ないが、崩御の際の記録が、承久の院宣発布以前に、近臣として順徳天皇に仕えた、平経高の「平戸記」に詳しく記載されている。

後鳥羽天皇に先立たれ、皇位継承についても北条氏の意図によって、土御門天皇の皇子達に承継されるようになると、都に戻ることもままならず、もはや生きる望みを見失ったのであろうか。「自死」を決意するにいたる。

「平戸記」にはこうある。

「カノ御悩ハナハダ大事ニ非ザリシトナリ。只スベテ供御ヲ聞食サレズシテ数日ニワタリ、九月九日ニ御命終ルベキノ由、カネテ御祈請アリシト云ヘド、人コレヲ知ラズ。遂テソノ事ヲ察シ得タリトナリ。コレニツキテ存命ハナハダ無益ノ由、叡慮アリシトナリ。焼石ヲ焼キテヒソカニ御蚊触ノ上ニアテシメ給フ。人コレヲ知ラザルカ。二ヶ日カクノ如ク候間、小物御増シ、次第に御身尫 弱ニナラシメ給フ。両左衛門大夫康光・盛実、御臨終已前ニ出家シ、法衣ヲ着テ祇候シ、相互ニ声高ニ念仏ヲ唱ヘシメ給フ。眠るが如く御気絶エタリトナリ。女房左衛門督・別当局已下八人出家ス。」

(お悩みはそれほど大きなものではなかったが、食事をなされず数日を経た。九月九日に崩御するよう、自ら祈請されていたのだが、誰もそのことを知らず、しかし、望み通りにはならなかった。これ以上命永らえても無駄とお考えになった。焼石を御蚊触(できもののようなもの)の上にひそかにあてられた。誰もこのことを知らなかったのだろうか。二日の間そのようである間、小さなデキモノ(?)が増え、次第に身体が弱った。御供の者どもは、御臨終の前に出家し、つつしんでお側に奉仕し、念仏を唱えていると、眠るように息絶えた。九月十二日の事。御付きの女房以下八人が出家した。)

歴代の天皇で、「徳」の字の入る天皇は、怨霊になる恐れのある天皇霊であるという。

崇徳天皇(上皇)が有名であるが、順徳天皇もまたそれに準ずるのであろうか。

崇徳天皇(上皇)は、分かりやすく言えば、お家の跡目相続という、内紛によって、不遇の生涯を送った天皇であり、外側の権力に追われた順徳天皇に比べれば、状況的にはまだ良いと言えるのかもしれない。

崩御の模様を拝察するに、これ以上壮絶な死というのは、崇峻天皇の暗殺と並び、他に例がないほどのものであろう。

順徳帝の御霊が怨霊となって彷徨っているのかどうかはさだかでない。しかし、佐渡の真野宮の空は驚くほど美しく清らかに澄み渡っていた。

順徳天皇は、歌人としても有名だが、「禁秘抄」という著書がある。これは宮中祭祀について、天皇としての心得、暮らしむきについて書き留めた貴重な書物である。その冒頭には非常に重要な文章がある。

「およそ禁中の作法は、神事を先に、他事を後にす。朝晩に敬神の心怠ることなく、就寝中にも、伊勢神宮、賢所(宮中の神殿)の方角には足を向けてはならない。」

これは現在の天皇にも受け継がれているという。

源頼朝の死後、二代頼家の修善寺追放と暗殺、ついで実朝が頼家の遺児公暁に暗殺され、棟梁を失い混乱する鎌倉幕府の情勢を見ながら、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を発した。

承久の乱。あるいは承久の変と一般的に言われている。

しかし、乱というのは反乱という意味であり、変は事変。上皇の院宣発布に反乱とか事変はおかしいではないかという意見は戦前にはあったようだ。ここでは承久の院宣と言うことにする。

義時追討の院宣を発して、武家の大半はこれに従うと思っていたが、読みを誤った。天皇が政治的権力を、たとえ便宜的にでも行使する時代は終焉を迎えつつあった。

少なくとも飛鳥時代以降、実質的には本来天皇は政治的権力を自ら直接行使しない存在であると言えるが、武家の進出によって、その存在の政治的性質がさらに失われるにいたった。

この後、後醍醐天皇が再びその「再興」を望まれるものの、大きな歴史の、時代の、流れをくつがえすことはできなかったと言える。

長い歴史的視点から見れば、天皇の役割の中から政治的性質が喪失したのは良かった。

承久の時、そして南北朝の時を含めて、この時、あくまでも天皇が政治的指導力のようなもの、政治的権力のようなものを望み続けていたとしたら、その後の天皇家の存続も、天皇が日本文明の核としての役割を担うという重要事も失われ、日本という国家の求心力は極限まで薄まっていただろう。

幕末明治の時代にこの国がどうなっていたか想像もつかない。

明治維新は、復古ではあったが、天皇の政治的権力を伴ったものではなく、古代から引き継ぐ祭祀王として、あるいは日本という国家を求心する権威的主軸としての存在を前面に出したものであった。

平家物語にあるように、盛者必衰の理のごとく、政治権力ははかなく短い。

天皇がそれに関わる必要はない。天皇は日本文明の核であり続けるという最重要事を「御役割」としてこそその存在意義が明確化する。

戦後、天皇は戦時憲法に拘束され、真の「御役割」が見えにくく、かつ天皇家におかれても、順徳天皇が「禁秘抄」にてお示しになったような天皇の真の姿、在り方というものが曖昧になりかねない状況にある。

「およそ禁中の作法は、神事を先に、他事を後にす」

それは国家安穏と国民の平和、世界の平和ということに繋がる。

その御声を佐渡の御陵において聞こえた気がしている。

(写真:真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮)

真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮
真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮
真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮
真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮
真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮真野御陵(佐渡 順徳天皇火葬塚)/真野宮
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