宮中の作法は神事を先にし、他を後にする
禁秘抄とはもともと、建暦御記と言われていた。建暦帝御記という意味である。しかし、足利時代頃から禁秘抄と言われるようになった。もともとあまり知られることのなかった書物で和学を行うものでも知らぬものがあったという。
この書は、建保六年(1218年)頃より承久三年(1221年)初めころまでのおよそ三年から四年の歳月をかけ、順徳天皇によりまとめられたものと考えられている。完成は、天皇が譲位し、承久の院宣以降、佐渡に遷幸(承久三年五月)される直前までの期間にあたる。
(1) 賢所
賢所とは、宮中温明殿(紫宸殿北東にあり、神鏡を安置した所)の中にあり、神鏡(八咫鏡)を斎祀るところである。賢の意は、畏の意に近い。神鏡は、天照大神がみずから宝鏡を瓊瓊杵尊に授け、我が子、この鏡を見ることは、我を見るがごとく、同殿同床にあって、斎鏡(いはいのかがみ)としたとも、この鏡を我が御魂として斎(いつ)き奉れといわれたともされるが、神武天皇の御代以降、同じ殿中にあったものを、崇神天皇の御代にいたって、その神威により、同床にあることを畏れ多く思われ、替わりの鏡を鋳造され、これを別殿に安置され、御正鏡を伊勢神宮にお祀りされた。これが賢所に神鏡を祀る本源である。これらの話は、日本書記、古事記、古語拾遺、神皇正統記等に記載されている。
《およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事をあとにする。敬神の心がけを怠ることなく、寝る間にも、伊勢神宮、賢所の方へ足を向けることがあってはならない》
太古日本は祭政一致であった。全てに先んじて神事を重んずること、わが国の基本であり、今(大正14年当時)でも毎年議会の事始めの儀式においても、総理大臣よりまず神宮の事を奏上することが定まりとなっている。
大宝令において、神祇官を諸職司の上に置かれるのは、国体を重んじるからであり、「神国の風儀、天神地祇を重んじる故なり」と北畠親房も言っている通りである。
禁秘抄の第一巻は、敬神の心がけが記されている。
(写真:平安京内裏図wikiより 温明殿は、図中央「仁寿殿」の右側にある)

