源平の戦いの最終章、壇之浦合戦において入水されたという安徳天皇であるが、宇佐神宮の古くからの社家である宇佐氏の家伝書には、壇之浦の安徳天皇は替え玉であったという。
壇之浦以前、一時難を逃れて宇佐神宮に逃れた安徳天皇が、宇佐神宮宮司・宇佐公通の息子と入れ替わったという説。(安徳天皇はすり替えられていた 宇佐公康著 )
宇佐家は代々宇佐神宮の社家の家格。偽の文書を代々家伝書として残す必要性や意味はあまりないことから、一つの信憑性ある話として考えられる。 一方、以前対馬に行った際、島の南部を車で走っていると、「安徳天皇陵」という小さな標識を偶然発見した。住所で言うと、対馬市厳原町久根田舎というところ。
途中細い山道に入って危うい道路を上がっていくと、そこに安徳天皇陵と伝えられる区域があり、宮内庁の「佐須陵墓参考地」と記された案内版もあった。この地でおよそ五年間暮らした後、崩御されたという。
山下の久根田舎の住民は代々そのことを伝えており、地名もそれにちなんでいるという(御所山、楼閣山など)。この御陵の周辺には、扇状の末広がりに同行の重臣や乳母女御などの墳墓が複数あるという。
これらの話が真実ならば、壇之浦で天皇と共に携行された、神鏡他「三種の神器」も「偽物」であった可能性が高く、後日、海中から奇跡的に発見されたとか、戦いの最中、海上で没しそうになった神鏡の入った櫃を武士が発見し、持ち帰ったなどという話も、それ自体本物の「神器」ではなく、もともと別の場所にそれらが保管されており、合戦後京都に帰還したと考えると、その方が理にかなう。
順徳天皇の時代、これらの話が京都にまで届いていたのかどうか。いずれにしても、壇之浦合戦から30~40年ほどしか時間が経過していない段階であまり公にならなかった可能性もある。
禁秘抄には以下にように記載されている。
賢所(1-4)神鏡の歴史
第六十九代後朱雀天皇長久元年(1040年)九月九日の火災において、源経信が神鏡を持ちだそうとしたが間に合わなかった。しかし、光るものがあって、唐櫃(鏡の入った箱)に入り、焼けなかったと言う。
一条天皇の御代に十二月御神楽があった。しかし通例は隔年これを行い、順徳天皇の頃には、毎年行っていたと書かれているが、これは一条天皇寛弘の火災(先述)の際、翌年十二月に御神楽が行われたが、これを最初として、隔年行われることとなり、その後一次中絶して、白河天皇の御代になり、再び毎年行われるようになった。
内裏焼亡の際、新規に宮殿造営された時には神楽が奉納される。
第八十一代安徳天皇寿永二年(1182年)七月、平源合戦において、天皇とともに、神鏡劔璽も同行されたが、文治元年(寿永四年 1185年)壇之浦合戦に敗れ、天皇は海中に没し、大納言左ノ局は、賢所の御唐櫃を海に投げいれようとしたが、袴の裾を船に射つけられて動けずにいるうち、武士が御唐櫃を取り留めた。このことは、平家物語にも源平盛衰記にも書かれている。
その年の四月に神鏡神璽が京都に戻ったが、京都に戻るまでに三年が過ぎていた。この時、御神楽を行い、神霊をお慰めしようとしたが、これは特別のことである。
(写真:1枚目 下関 赤間神宮―安徳天皇を祀る、社内には安徳天皇陵もある/2~4枚目 対馬 厳原町久根田舎にある伝安徳天皇陵参考地)




