順徳上皇が佐渡へ遷幸(配流)の後、その地で崩御まで二十年。この間、正史に残っているだけで三人の皇子、皇女があった。
慶子宮(第三皇女 嘉禄元年 – 1225年生)
忠子宮(第四皇女 貞永元年 – 1232年生)
千歳宮(第八皇子 嘉禎元年 – 1235年生)
佐渡において、実際これらの皇子・皇女の祀られている神社、及び陵墓を参拝したが、慶子宮以外は、明らかに事績が少なく夭折または若いうちに薨去されたものと思われたが、やはりそうであった。
忠子宮は順徳上皇崩御の後、六年後に十八歳にて薨去、その三年後に千歳宮も十八歳にて薨去となっている。
慶子宮のみは、慶宮寺という菩提所があり、ここが在所であった。六十二歳にて薨去。
忠子宮は、和歌に秀で、順徳上皇からかわいがられたらしく、上皇崩御後の悲しさが非常に深いゆえに、ほどなく薨去されたとされる。
千歳宮については事績が少ない。
二十年もの間、いはば男の盛りの時期に佐渡にあって、おそらくこの三皇子以外にも子はあったのではないか。人知れず、その末裔が佐渡の地に今もいるような気がした。
佐渡には室町期に、世阿弥、日野資朝なども配流されている。
(写真:1~4枚目 慶子宮 御陵及び一宮神社/5~8枚目 忠子宮 二宮神社及び御陵/9~13枚目 千歳宮 三宮神社及び御陵)
以下、禁秘抄「賢所 最終章」
賢所(1-5)
天慶元年(1194年)第六十一代朱雀天皇の御代、多くの妖言聞こえ、天災地変も多かった。温明殿を修理している間、後涼殿(温明殿と対の場所にあり、清涼殿と一対の御殿。女御・更衣の起居する場所。天慶の時代に賢所が置かれた。この文章にあり)に神鏡を遷そうとしたが、大雨となって通路ができなかったが、女官が御唐櫃の前で祈祷したところ、雨が止み、遷すことができた。
神鏡を御殿内に入れ奉る時は、天皇もまた殿下にあり。御唐櫃は、二合、または五合の大きさである。これは大刀契(たいとけい)、鈴、印璽をも共に遷すことがあるからである。(大刀契とは、三種の神器に次ぐ宝器で、南北朝頃に失われたという)
天皇即位の後、始めての御供物は、吉日を選んで奉ることが旧記に記載されている。また、宮中において死傷者などが出た場合(触穢)でも御供物はいつも通り供える。しかし、これらは、必ずそうするという、決まり事になっているわけではない。
寛治八年(1094年)第七十三代堀河天皇の時、第七十一代後三条天皇の母后である陽明門院が崩御された際も、いつも通り御神鏡への御供物が供えられた(三月一日のこと)。また建保四年(1216年)第八十二代後鳥羽天皇の御母七条院の兄、内大臣藤原清信公が薨去の際も、神鏡への供物は供えられたので、触穢の時でも、供神はいつも通り行われるのである。
この藤原清信公薨去の際には、諸神社の祭りは、延引されたが、供神物は、陽明門院の例に従って、供えられた。とはいえ、このような場合、供物を供えない場合も、時々の状況に応じて起こるので、先例に従って、決められているものではない。
賢所に御衣を供奉することは、上古においては行われていたが、中古より途絶えた。周防守棟仲(平 棟仲)の息女の説によれば、それは女子の装束であるという。夏には、「生絹」という糊のきいたもの、冬は、「練絹」という柔らかい質のもの。
従二位の親子が私(順徳天皇)に美しい女装束を献じてくれた。
(以上、禁秘抄 本文訳)
太神宮儀式帳、延喜太神宮式などによれば、小文の紫御衣、小文の紺御衣、帛(しろぎぬ 白絹)の御衣と帛単衣の御裳(もすそ 下袴)、羅(網目状の薄い絹織物)の御裳、帛の御袜等(足袋)などは、いずれも姫神の御衣装であるので、周防守棟仲(平 棟仲)の息女の言っていることも根拠のあることである。
従二位の親子が順徳天皇に女装束を献上したのも、故実に合っている。この親子とは、源親國の息女、白河天皇の乳母である。
以上は、「賢所」に関する旧例故実が記された部分である。我が国は敬神を以て、基礎とする国である。そもそも賢所は、今の御代(大正年間)にもなお皇居内に祀られており、臣下が、外国に行く場合などには、特に参拝をなされるといわれる。そのようであるから賢所の由来は、わが国の国民として、知らないわけにはいかないことである。
(賢所の章 以上)













