清涼殿(7-1)
禁腋秘抄に「常にわたらせ給う(いらっしゃる)殿なり。中殿ともいう。昔は仁壽殿を御殿にしつらわれたる時もあり。」と書かれているように、天皇はもとは仁壽殿を常の御殿としていたが、第六十二代村上天皇(天慶9年/946年~)の天暦の火災以降、清涼殿にお移りになった。
中古の物語草子日記などにも、清涼殿のことが多く書かれており、間の名称や調度品にいたるまで、それぞれ由緒もあり、名品もあるが、まず初めに間毎概要及び詳細につき細図を示しながら解説する。
五間(イツマ)
母屋の間数のこと。一間は、柱と柱の間のことをいう。清涼殿は東向きであるが、まず簀子(スノコ)より入る場所を弘廂(ヒロビサシ)といい、その内側を東廂という。
母屋はその奥になる。母屋の北より数えて、第一間を御座所である御帳臺への「御路」とする。第二間を「御帳の間」という。御帳臺が置かれてある場所であるからである。
また第三間には、大床子がある。第四間には、奥の方に御厨子が置かれている。第五間に四季の御屏風が立てられ、日記の御厨子も据え置かれる。
大床子と厨子については後述する。
(写真:一枚目清涼殿内五間部拡大、二枚目清涼殿母屋図(以上「禁秘抄講義より」)、三枚目清涼殿配置図(国史参照地図-大正15年より))

