大祓とは、簡単に言うと、高天原にいる天津神が日本に降臨して国津神と共にこの国を治めることとなったが、国中に罪穢れがあふれると、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」と祝詞を奏上すると、天津神、国津神がこれを聞き、それらの罪穢れが、風に吹かれ、川の流れに乗せられ、大海に注ぎ飲み込まれ、根国、底国に吹き払われ、どこへともなく持ち去られ、罪穢れがなくなっていくというもの。
天津神国津神(天や山から地上のそれら罪穢れを吹きはらう)、瀬織津姫(セオリツヒメ ― それらを川から海岸へ持ち去る)、速開都比売(ハヤアキツヒメ ― 海岸の潮によって大海へと飲み込む)、気吹戸主(イブキドヌシ ― 大海から根の国、底の国へ吹き払う)、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ ― どこへともなく消し去る)。こういう手順で進む。
大祓は神社によって多少使用する言葉が異なっているが、凡そ同じ内容である。全ての神社の大祓を見たわけではないが、最近椿大神社の大祓をいただき、内容を見ると一般のものとはかなり違う部分があった。
これは、以前聞いた話では、古い大祓であると言う。今でもこの大祓を使用している神社もある。三輪系の神社はそうかもしれない。
以下、
国土に罪穢れがたまっていくというところ、(抜粋)
国中に成り出でむ天の益人達が過ち犯しけむ種種の罪事は、天津罪【と畔放ち 溝埋め 樋放ち 頻蒔き 串刺し 生剥ぎ 逆剝ぎ 屎戸 許々太久の罪を天津罪と宣り別けて】国津罪【とは 生膚断ち 死膚断ち 白人胡久美 己が母犯せる罪 己が子犯せる罪 母と子と犯せる罪 子と母を犯せる罪 畜犯せる罪 昆虫の罪 高つ神の災 高つ鳥の災 畜仆し 蟲物せる罪】許々太久の罪出でむ
くぬちになりいでむ あめのますひとらが あやまちおかしけむくさぐさのつみごとは あまつつみ 【あはなち みぞうめ ひはなち しきまき くしざし いきはぎ さかはぎ くそへ ここだくのつみを あまつつみとのりわけて】くにつつみ【とは いきはだたち しにはだたち しらびとこくみ おのがははおかせるつみ おのがこおかせるつみ ははとことおかせるつみ ことははとおかせるつみ けものおかせるつみ はうむしのつみ たかつかみのわざわい たかつとりのわざわい けものたおし まじものせるつみ】ここだくのつみいでむ
【】中が一般の大祓にはない部分。【】内の「ここだくのつみ」の具体的内容についてはいずれ記載しようと思う。
これを読むとなにやら旧約聖書のような激しい表現に驚くが、これが本来の大祓なのか、あるいはそうではなく別種の要素が混じったものなのかはわまらないが、一般の大祓でこの部分がないのは、とても「日本人的」なものを感じないでもない。
こういう部分を強調すると、それが「戒律」のようになり、人間の魂を縛り付けることになる可能性もある。
ただ、大祓ではこれらの「天津罪」「国津罪」を犯してはならない、とも犯したら地獄に落ちるぞ、とも言ってはいない。
ただ、これは「罪」だぞと言っているだけである。そしてそれらの「降り積もり」は、「天津祝詞の太祝詞事を宣る」ことによって祓われるのである。
これは私の持論だが、「戒律」「宗教的拘束」は人間の魂の真の姿を遠ざける。
確かに人間の魂を拘束することによって人間社会は一定の倫理を保ちうるかもしれない。しかし、それこそが「今存在する宗教の限界」だと私は思っている。他にも「宗教の限界」と思えるものはいくつかあるのだが。
だが神道は少し違う。
そして、日本文明が「善悪二元論」に陥らない根拠の核の部分がここから垣間見える。
(写真:椿大神社内摂社 椿岸神社(鈿女本宮) かなえの滝)

