大嘗祭及び天皇及び日本の文化文明と、日本国憲法の在り方について、政教分離がどうのという議論が起る前に、改めて真剣に認識しなければならないことがある。
まず、憲法と、その国家や民族の文明や歴史や伝統とどちらがより重要であるのか。
日本国憲法に関しては、たまたま戦争に勝ったというだけで、自分の文明の方がはるかに優れているかの傲慢さの態度の挙句、日本の文明、歴史、伝統など何も知りもしない20名かそこらの、必ずしもその道の専門家とも言いきれない白人達が、2週間の急造で作成した日本国憲法を、
「野蛮で劣った日本人達に真の民主主義を教えてあげなければならない」
という姿勢や気分の中で制定させられたが、それを今となっては、こともあろうに日本人が珍重するありさま。
その中で、憲法九条に関しては、米軍が日本の国土に進駐、駐留しているから、自国の外交意思を表明する必要もない前提で書かれたものに過ぎないことは今更言うまでもない。
日本の国家としての自立・自律を奪ったうえ、少なくとも千五百年以上に渡る歴史と伝統の上に脈々と培われてきたものを、あの程度の「日本国憲法」などという「Paper」でいとも簡単に、「憲法に政教分離」をうたっているからと否定して平気な顔でいる日本人達。恥ずかしいと思わないのだろうか。
憲法がそれほど重要なら、なぜあの程度の、恥知らずな憲法のまま放置し続けようとするのか。そのことこそを論議する必要があるだろう。
本末転倒も甚だしい。
一つの分かりやすい前例をここにあげておく。
南米はスペイン人の侵攻で文明もろとも完全に破壊され、言葉も宗教も奪われたが、未だに、常に地域全体が不安定で、真直ぐに国家として、地域全体として発展繁栄できない。これは彼等の歴史的経緯と無関係では決してあり得ないだろう。
これは南米の過去の歴史と、失われたものを復興することの難しさと、それを復興しようという意思の希薄さも併せて、見ていかなければならない教訓となる。
自らのアイデンティティーあるいは文明の核のようなものを奪われるということは、畢竟「魂の永遠なる彷徨」という結果を生むのである。
政府、結論ありきの大嘗祭 憲法論争避け前例踏襲:時事ドットコム を読んで

