解放という言葉を聞いてまず思いつくのは「女性の解放」というのがあるが、この解放という言葉は共産主義あるいは社会主義用語だと思われる。
共産主義者は人間を自分たちの価値観に導き入れることを「解放」という。
香港を解放した
というのは一般的には、香港の共産化のことだ。
資本家の「くびき」から労働者を解き放って労働者のための世界を作ることがマルクス主義の本意であれば、開放とはそういうことだが、歴史の、現実的に、あるいは本質的に見れば、資本家よりもより強固な「くびき」に人間を取り込むことでしかない。
女性の解放というのは、本来的には女性を育児から解放して男性と同じように労働者として「社会の一員」として貢献できるようにすることだというのがあるだろう。
男女の平等などという理念も同じ。社会システムとして男も女も同じように労働力として一元化し、駆り立てるということだろう。それはもしかすると人間の無機質化へ向かうプロセスかもしれない。人間社会の「工場化」あるいは「牧場化」ということである。
子供を親から取り上げて国家が育児をすることで女性を労働力として活用するという。共産主義にはこういうのがある。
言葉には、魔力というか詐術というのがある。
資本主義の最終段階が帝国主義であり、その終焉の先に共産主義があるという彼等の本来の思想からすれば「解放」とはそれを率先する行為だと思うが、資本主義も共産主義もそのイズムだけで社会全体が動けば結実的に「唯物社会」に向かうだろう。
マルクスやレーニンが言ったように、資本主義の最終段階が帝国主義であり、その先にあるものが共産主義だというのとは多少違っているが、現実社会を見ていれば共産主義ではないが、大きく見ると現実社会のシステムは、それに似たようなものへと近づきつつあるのも事実だろう。
グローバリズムが資本主義の最終形であるとすれば、それは人間の一元化であり規格化であり家畜化へ向かうプロセスである。
グローバリズムは社会主義のことであり共産主義とイコールだと最近では言われているが、マルクスが予言した共産主義とはこのことだったとも言えるだろう。
所詮、経済学だけが人間社会を席巻するというのは「悪魔的」である。
結局、マルクス主義あるいは社会主義というのは、歴史と文明の全否定であり、人間を社会の連続性から切り離して「個体化」し、人類を一つの価値観や体系に集約しようという試みである。
その意味で少なくとも日本人も日本文明も「解放」されるべきではないし、それを率先するような政治家や官僚や財界人や学者には「関わらない」方向へ進むべきである。
(写真: カールマルクス)

