キリスト教では唯一絶対の創造神を信仰するが、イエスキリストはその神と同一の存在だという。
イエスは神か人間か
それだけの問題で恐らく何百年も論争し、今のカトリックもプロテスタントもイエスは「神」と同一の存在。で落ち着いたらしい。
その過程で、イエスは神ではなく人間であり、神の代理人、あるいは神の言葉を人に伝える者だと考える一派は皆殺しにされ闇に葬られた。
しかし、極めて初歩的な話だが、唯一絶対の創造神が、たかだか人間と直接関わるのだと考える、あるいは思う時点ではなはだ子供じみている。
仮に最上神のような存在があったとして、それが人や個人と直接つながったり、語りかけたり、などと考える時点であまりにも幼稚である。
唯一絶対の創造神の世界観を、愚かな人間が理解するには莫大な翻訳が必要だ。いく層もの仲介的存在が必要だろう。
そもそも、人が議論して、その人が神か人間かを決められるものか。神か人かは理屈とは別の次元だ。それを彼等は「理屈」で決めたがる。
理屈とは人間の頭の中のこねくり回しでしかなく、小説家がストーリーを考えるのと変わらない。そんなものなんとでも言えるし、百人いれば百様だろう。
下らない。
これに比して、神道の神々の世界ははるかに重層的である。そもそも神という概念が異なっているが、神道では「霊体」と「神霊」を含めて神々と言っている。理屈で神をとらえようなどという愚かな考えもない。
日本人は初めにこの世があって人間も神々もその過程で出現したものと考えてなんら意義はないだろうが、彼等は、まず初めに神がいて、その「人格的唯一絶対神」がこの世の全てを作ったのである。
そんな存在が個人の姿で現れるなんて、、、。
彼等の自己中心的な傲慢さのようなものはこういうところから来ているのかもしれない。
例えば、宇宙が初めは一つであるとかそういう思想も、いかにもユダヤキリスト教的な発想だ。私は信じない。
そもそも唯一絶対と決めつけた時点で論理破綻するのは明らかだがそれをあくまでも理屈で解決したがる彼等の世界観は結果人間社会を息苦しく、限定的なものにさせている。
そんな彼らがなぜ世界に、かくも影響力を持ち得たのか。この不可解を打ち破れば良いと言うことになる。
彼等の思想があまりにも遠大な理屈と文章で成り立っているからと言ってあまり鵜呑みにしないほうがいいだろう。人間レベルの「整合性」など大した話ではない。
日本人は日本人の視点で考えるべき時に来ている。
万物に神々が宿る。という視点で考えるだけでも宇宙の成り立ちは全く別の世界観で語られることになるだろう。
(写真: 古代キリスト教神学者 アウグスティヌスの肖像画)

