この二人は、文章力で極めて優れていると以前から思っていた。自分が文章修行していくにあたって、最も影響を受けたのは吉行淳之介だが、彼は平易な文章表現で深みのある内容を表現することを是としていた。
高校時代から私は彼の作品を渉猟した。そして彼の「作文思想」のようなものに共鳴しつつ学んだ。
「文体は平易でなければならない」
三島由紀夫は吉行淳之介の対極かもしれない。吉行は肩の力の抜けた平易な文体だが、恐れることなく自分自身の心象風景を吐露する。
三島には常に苦悩がある。文章表現の中に常に切迫感があり、異常な感性と突出した知性の狭間にありつつ「彼の本質」である「死」への早急なる願望や羨望が文章の中に常に垣間見える。
村上春樹を学生時代に少し読んだ時、彼の作文作法はほんのわずかではあるが、吉行淳之介の作法を意識しているなと感じたことがある。
実際、彼のエッセイの中で、吉行淳之介について自分の文学的スタンスの中で何か避けがたい影響力のようなものの「断片」について語った一節を見出した記憶がある。
学生時代に渉猟した吉行作品であったが、つい最近彼の戦時中を描いた自伝的小説を読んだ。改めて彼の文章力と表現力に感銘した。
そのついでに上記のことを思い出し、村上春樹の短編集をちょっと読んでみることにした。そこでその違いに驚愕した。
「村上春樹は人から嫌われることを恐れているな」
彼の文章をほんの数行読んだだけでそう感じた。彼は人から好かれたいとは思っていないが、決して嫌われることをしない本能が身についている。
村上春樹の文章は平易で分かりやすく、それでいて映画のワンシーンのような雰囲気のある情景描写を多用しつつ、その中に漠然とした人の悲しみや満足感を軽いタッチでにじませる。そして極めて「ほんの少し」社会への不満や世間一般の人の抱く不安感のようなものを軽妙なタッチで漂わせる。
しかし、常に彼に結論はない。
その時、村上春樹という小説家はとても慎重で臆病な人間だと私は直観した。
彼はもともと翻訳家であって、英米文の翻訳業務から自らのキャリアを出発した。
彼の文体は一見、吉行的な「平易だが深い内容をそれで表現する」かのように見えるが、実際には、英語の翻訳文の日本語化的文体であろうと思う。
それは逆に言えば、外国語への翻訳からの海外展開を視野に入れた優れた「商人的」側面もほのみえる。
吉行の小説家を目指すプロセスには以下のような心境があったという。
「戦争中はずっと死ぬと思って暮らしてきた。当時の自分は達観とも捨鉢ともつかぬ考えにあった。自分は人とは違う感受性があるが、それを唯一表現できるのは小説の世界であった。」
「焔の中」という彼の戦時中の自叙伝的な作品がある。これを数十年ぶりで読んで改めて感じたことがある。
彼の文体には乾いているが、どこか古武士的な男気があり、たとえ誰に支持されなくとも己が信念をゆるがせにすることはない、というような気概のようなものが彼の文章から感じられる。
その直後に読んだ村上春樹の文章にはそれは微塵も見受けることができなかった。
「似て非なるもの」とはこういうことだと思った。
戦時中の若者達の「性の抑圧」から戦後の解放的な世情において、吉行の性的なテーマは時代に適っていたんだろうと思う。
日本人は、己が信念を貫くのを男らしさと感じるのが、もはや時代に適さないからだろうか。それゆえに村上春樹のような、何か「中性的な」「どことなく誰かに媚びたような」文体が人に認知され支持されるということだろうか。
吉行は、己をさらけ出して表現しているが、村上は何一つさらけだしているようには思われない。それが「クール」ということか。
しかし私には、それがどことなく村上氏に代表されるような現代人の「幼稚な」側面を否定できないように感じられてくる。
村上春樹の作品を嫌いではないが、どうしてもどこか「物足りない」と感じるのは「時代遅れな」私だけだろうか。
彼の作品に多用される、様々な年代物の「商品群」がどれもすべて欧米の逸品ばかりで何一つ日本の商品が出てこないことも気になってきた。
欧米人は彼等の文化のディティールにこだわった表現に満足するだろうし、現代において中国人や韓国人は本質的に日本人以上に欧米へのあこがれが強いだろう。
村上春樹の時代は戦後日本の縮図でもあるし、吉行は失われた「日本人精神」を断片的にではあれ、戦後日本に残した作家ではなかったか。
しかし時代の価値観はある日突然逆転するものである。

