「結局人生ってなんなんだろうねえ。わけわかんねえな。」
ある時、銭湯の湯舟で隣り合わせた職人風の老人がそう言った時の言葉の切れ端に、どこか知的な溜息が漂っていたのが印象的で記憶に残っている。長いこと生きていれば、いや、それほど生きていなくても、人はそう考えることがしばしばあるだろう。
私の父親は、文学にのめり込む私を随分心配して、ちゃんと飯が食えるような人間になれと相当に叱ったものだ。父親とは随分喧嘩した。
「文学で飯が食えるのか。うちの家系は理系だ。お前に文学の素養などあるはずもない。文学部へ行くなど馬鹿げたことなど考えず理系へ進め。」
戦前は職業軍人で戦後は医師だった父親は実利主義者で、私のように「余計」なことばかり考える人間を苦々しい気持ちで眺めていたように感じていた。私は父親を自分とは全くソリの合わぬ真逆の人間と感じていた。きっと母方のDNAを引き継いでいるに違いないとか。今思えば若気の至りだ。
ここから先は、結構信仰めいた話になる。結構宗教臭い。しかし、これはその「信仰」の喧伝をする目的でこの文章を書いているわけでは全くないことを予め記しておく。
私が大学生の頃、母親が重い病に罹り、がんセンターに入院した。リンパ癌でもう手のほどこしようがないという。余命1年もつかどうかと言われていた。
ある日、人から聞いた仏教信仰があって、それに関わったあることを母親にしたところ、癌が消えた。がんセンターの担当者は首をかしげた。ありえないと。
それもきっかけとなって私はその信仰を始めたが、それから母親は20年以上生きた。その間、死の宣告を2度ほどされたが、その都度、その「あること」をするとふっと命がよみがえるのだった。不思議だと思った。こんなことがあるものかと思った。
人は死の間際に来ると、力ない目がギラギラ光ることがある。
3度目に母親が死の宣告を受けた時、母親はそういう目をしていた。
「ああこれはもう駄目かもしれない。」
私はそう思った。父親は私にこう言った。
「母さんはもう駄目かもしれん。覚悟しておけ。」
父は医者だからそういう目線で見ても、もう無理かもしれないと感じたのだろう。
その際も、その「あること」をした。すると体重が30kgを切っていた母親が、みるみる回復し、まるでゾンビが真人間に戻るかのように元に戻った。この世のものとは思えないとも見えた。
母親はそれから7年ほど生きた。
父親は私の信仰には大反対だったので、その「あること」の話を父親には語らなかったが、私は正直驚いた。こういうことが本当にあるものなんだなと。
これだけ世話にもなったし、その意味でも、この信仰は一生続けるつもりでいた。しかし、母親が亡くなると、急に憑きものが落ちたように気持ちが消えてしまった。
個人的にも宗教的なことに興味を持つようになっていたので、それなりにその信仰に意味を見出してはいたが、この場所が、自分が本当に求めるものが得られる所だとは結局最初から最後まで思うことができなかった。
他人から見たら、相当に深入りしたが、なぜかいつも自分自身は「部外者」的心境だった。そもそも自分が信仰を始めるなんて想像もしていなかった。本来そういうタイプの人間ではなかった。
だから「憑き物が落ちた」時には、この場所を離れようと案外簡単に決断した。
母親に甚大な効果のあった「あるもの」とは簡単に言うと御祈祷のようなものだったが、母親に対してだけは、抜群に効果があった。
ところがそれ以外にそれほど抜群な効き目を現すようなことがないということが分かり、不思議に思ったものだ。しかし、その時ある考えが浮かんだ。
もしかすると、私が母親の代わりに信仰していたのかもしれないと。母親はそれができないから自分がそれを代わりにしていたのではないかと。
いささか信じられないことだが、知らず知らず、人が他人の思いや意を汲んで生きるということがあるのかもしれない。その意味で、その人生は自分の人生であって自分の人生ではない。
私がしていた信仰は、少なくとも母親には間違いなく必要なものだったに違いないということだ。それを通じて私自身様々な学びはあったが、その信仰が最終的に自分自身のためにしたことだったという感覚が全く持てなかった。
この感覚も実に信じがたいというか驚くべきことだった。母親が存命中は全く気づきもせず、思いもしなかったが、母親が他界して初めてそれが自分のためにしたことでなかったのではないかと思いいたった。
母親自身はそう思っていなかったかもしれないが、魂の深い部分で彼女あるいは彼女に関わりのある何等かの意思が私を動かしていたのかもしれない。人間にはそういうことがあるものなのかもしれない。そう考えた。
正直、その後しばらく抜け殻のようだった。それまでの20年ほどが「空白」のように感じられてしまうのだった。「失われた20年」という言葉があるけれど。まさにそんな心境だった。
母親が他界して後、まるで緊張の糸が切れたように父親の人格が変化した。彼は少年のようになった。厳格さや緻密さは消えて、本音を簡単にはさらさない性格だったが、時々素直に、あっけなく本音で私に語りかけてくるようになった。
ある時、父は私に驚くようなことを言った。
「俺は子供の頃、よく街中で救世軍がラッパを吹いて人に呼び掛けているのを見て、自分もああいう生き方がしたいなと思ったものだ。天理教の信者みたいにみんなで共同生活をしたりなあ。そんな生き方に憧れたよ。自分が生まれた時に産湯に浸かったのをはっきり覚えている。」
私が、文学などという飯の種にもならないことに興味を示したり、信仰に入ったりしたのを散々ののしった父親にはあるまじき発言に私は言葉を失った。思ってもみない父親の側面を見た。昔と今、どちらが本当の父親か分からなくなることもあった。
父親から、その驚きの言葉を聞いた時、再び母親が他界した時に感じたことと同じ心境が襲った。
自分はこれまで、父親が心の奥底に隠し持ち、脇へ追いやっていた彼の本心をそのまま形にして生きていたのではないだろうか。自分にはその気は毛頭なかったが、気がついてみれば、少なくともこれまでの自分の人生はそういう人生だったのかもしれない。
人は、自分の意思や選択で、自由に、単独で、生きているように確信して生きているが、実際は違うのかもしれない。
実際は、自分と繋がる数えきれない多くの人々の意思の塊のようなものが延々と継続する、その動脈線上の一部として、引き継ぎながら生きている存在に過ぎないのではないか。
ただ多くの人はそのことに気づかずに、自分の欲望を、自分自身の欲望だと信じて生き、そして死んでいく。しかし、それも結局は何かの部分の反映に過ぎないのではないか。
引き継いでいるのは両親だけではないだろう。両親もまた自らの人生を何かの意思を無意識に引き継いで生きた。
結局「自分」とは何か。そんなものが実際あるのだろうか。最近、そういうものの存在を疑わしいものだと感じている。
引き継ぐべきことが表面化せず、裏に隠されていることもある。
「自我」とは所詮、にわかづくりの幻影ではないか。
不思議なことだが、「自分」なるものが単なる継続性の中の部分に過ぎないと知った時、人はより巨大なものの器の中に「自分」が置かれていることに気づくような気がしている。自分を含む全体を見渡すような存在の一部に組み込まれたような感覚。
そして、日本にはそれを受け入れる「装置」のようなものが元々存在していたのだと。
明治以降日本人は「近代的自我」の思想に浸からされたが、江戸時代までは営みの継続性の中の一部としての自分、という概念の中で無意識に生活してきたところへ、新しく持ち込まれた西洋的自我の概念との狭間で大きな葛藤と闘いが起った。
大東亜戦争敗北後、さらに、あるいはしだいに本来の価値観が消えてゆくだけでなく、日本人としての自覚や自信も誇りも薄れていったように見える。
それを今一度見直す必要があるし、さらにそれをより深くしていかなければならないのではないかと。

