本居宣長に関する書籍を読んでいてこういうくだりがあった。
宣長ら、江戸の国学者が支那経由の文化思想に基づいて国家を論じたり、日本はかくあるべしと言うことに対して、それを漢心(からごころ)として歓迎しない風があったことに対して、
「日本学の古学は、近世思想史において、こうして中国と日本を空間的に相対化することができた。だが、これは、歴史の時間的な相対化から乖離する可能性をはらんでいた。事実、それが尖鋭化した一部の古学者は、極端な復古主義に走り、やがて近代日本の国粋主義・皇国史観に傾斜してゆく。その行き着く先が、あの不幸な戦争であったこと、贅言(ぜいげん)は要すまい。」(「本居宣長 うひ山ぶみ」白石良夫著より)
戦後の学者のかなりの部分がこういう決まり文句をいうのを見る。最近は減りつつあるかもしれないが。
この考え方は明らかに間違い。
戦後教育、占領教育の「成果」なのかどうか。
まず、明治期から昭和初期の日本において、当時の政治決断者が、外国と戦端を切る決断をする際「皇国史観」という主義に基づいて政治的決断をした歴史的事実はどこにもないということ。
さらに言えば、明治天皇も昭和天皇も当時の開戦決断に際していづれも「肯定的ではない」ということ。逆に言えば、皇国史観的見識で判断するならば「開戦は否」であるとも言えるだろう。
明治期から昭和初期までの戦争期は、西洋列国による植民地帝国主義がアジアになだれ込んできたことへの防衛戦を日本は戦ったのであって、それ以外の理由はほとんどない。
むしろそのような危機の中、幕藩体制下においては、いはば連邦国家の体でありながら軍事的侵攻を受けた場合、日本の国土を一致して外敵からの侵入を死守する体制はなく、国家を団結する手段がなければ今頃日本の各地に香港やマカオのような西洋による植民地域が存在するだけでなく、国土が分割されて国家の形を失った可能性がある。
諸藩においては、ある藩はイギリスが背後にあり、別の藩はフランス、アメリカと言った形になって、まさに「西洋人の思う壺」にはまっていただろう。
それを当時の有能な志士や藩主達は自覚していた。
幕藩体制というのはあくまでも「鎖国」を前提として成立する国家体制であった可能性が強い。
皇国史観や国粋主義と、当時日本という国家が西洋との戦争に巻き込まれたこととは直接の因果関係はなく、そのような思想がなくても戦乱に巻き込まれ、場合によってははるかに悲惨な末路を辿っていた可能性もある。
では日中戦はどうか、という人がいるだろうがそれも結果的に、それと同じ理由以外の理由で重要な要素は見当たらない。そんなことはないという意見があるなら聞いてみたいものだ。ただし意見をいう前に歴史を学んでほしい。
大東亜戦争の敗北と皇国史観を結びつけて、「あれは間違いだった」と喧伝するのは、明治期から昭和初期までのアジア情勢の本質から目を逸らすまやかしの論理だという事を知るべきである。
ただし、当時の復古主義、国粋主義、皇国史観が正しいかどうかという理屈はここでは書かない。それと「明治期以降の日本と諸外国との開戦に関する決定プロセス」とは全く別問題だからである。
また仏教は当時の戦争遂行の埒外にあり、正しかったと言った言説は、主として戦後鈴木大拙などから発信され、彼が欧米において隆盛した経緯もありよく言われるが、それは明治以降の仏教界が、江戸時代までの横柄さから、社会的に一時疎まれたことの腹いせのようにしか私には思われないし、熱心な法華経徒に有能な軍人や学者がいて思想的に国家を先導した経緯もあるのではないか。(石原莞爾、北一輝など)
先程出典の書籍は非常に優れた著作であるが、優れた書籍の著者であるからと言ってそこに書かれてあることが全て正しいわけではない。
その点を注意して読書する必要がある。
(写真 本居宣長)

