第十代崇神天皇の時、それまで同床共殿であった天照大御神の御神体は、別の場所に御遷しされることとなり、以降最初の遷宮の場所が丹後国であり、吉佐宮(よさ)と称した。
その伝承地のひとつとされるのが、元伊勢内宮皇大神社である。丹後地域にはこの他「元伊勢」伝承地として、籠神社の奥宮(真名井神社)、竹野神社、笑原神社などがある。
現地に来ていくつかの神社を参拝するまでこの神社の存在を知らなかった。若狭彦神社を参拝した際に、この神社に関する情報を知りその足で向かった。
鎮座地は、丹後國加佐郡に属するが、加佐(かさ)とは、天照大神の元の鎮座地である笠縫村のカサをとったものかもしれない。尚、加佐郡とされる地域内で上記「元伊勢」伝承地としては、笑原神社も含まれる。(下記に資料記載)
吉佐宮(よさ)は、天橋立など籠神社を含む地域を「與佐郡(与謝郡)」と呼んでいることから籠神社及び天橋立周辺を吉佐宮のあった場所であると考えることはできるだろう。
しかし、丹後國の元伊勢として最も知られる籠神社の奥宮「真名井神社」の「真名井」というのは、豊受大神に関わる名称であり、崇神天皇の時代に大和から遷幸された天照大神とは関連がない。豊受大神は、崇神天皇から十二代後の雄略天皇の時代に天皇の夢によって、丹後國比治から伊勢外宮に勧請された「トヨケ神」である。
どうも外宮の神と内宮の神が混同しているように思われる。丹後國内で複数の候補地や由来があるようだが、実際さまざまな事情で数年間の間、いくつかの場所にお祀りされたかもしれない。
古い記述を優先して考えると、大本は、現在の比沼麻奈為神社の周辺に豊受大神(トヨケ・トユケ)の神が鎮座していた。その後、天照大神がこの地に遷幸の後、地元神のトヨケ神も、いくつかの場所に鎮座することになった。当時、二つの神が、併せ祀られたとも思えないが、地元の人々によって何等かの形で併祀されたのだろう。
雄略天皇の夢で、丹後國の豊受大神を懐かしむような感覚があるので、何等かの形で併祀されたとも考えられる。
元伊勢の情報として、天照大神の情報よりも豊受大神に関する情報の方が多く、伊勢内宮の元伊勢がどこであったかを明瞭に示す資料がない。
元伊勢を確定することは難しいが、いくつかの資料を見ていく限り、時代も古く、かつ公平な立場で記述された資料を優先した場合、「元伊勢内宮皇大神社」「元伊勢外宮豊受大神社」周辺域を、吉佐宮の該当地にするものが多いように感じられる。
元伊勢内宮皇大神社は、御神体山(日室獄(岩戸山))を背にする神社で、山深い場所に鎮座する神秘的な神社である。
多くの神社を訪れた者が、この神社を訪れた時、この神社が「元伊勢」だと言われて疑問に感じるものは少ないだろう。自分の神社参拝の歴史の中でも非常に印象的な神社の一つである。忘れがたく、去りがたい魅力がある神社。
社伝によれば、吉佐宮に遷座する前に暫くの間この地に留まったところで、地元の人々がそれを慕ってお祀りしたもののようである。
皇大神社(元伊勢内宮皇大神社) 河守上村字内宮山に鎮座
「当社は、第十代崇神天皇の御代大和国笠縫の里から当国(丹後国)吉依宮(吉佐宮)へ御遷幸の折、この地にも暫く御鎮座あらせられ、第十一代垂仁天皇の三十六年今の伊勢五十鈴川の川上に御鎮座あって以来、世俗に此処を元伊勢神宮と称するようになったと古老の口碑にあるが、何等旧記がなく考証の資料を得ることができない。」(加佐郡誌(大正14年))
大本教の発祥地である綾部に近い地理的関係があるのかもしれないが、大本教の信者がこの地に参拝した形跡が見られた。背後の神体山の形状やこの神社境内の神秘的な雰囲気は、出口王仁三郎が好みそうな神社であるとも感じる。
ここから、4キロほど離れた場所に元伊勢外宮豊受大神社がある。ここの由緒のほうが幾分明瞭な気がした。やはり、内宮よりも外宮に関わる情報のほうが明確であるように思う。外宮の豊受大神がこの地域の地元神であるから当然のことであろうけれど。
以下、「丹後国元伊勢」に関する各種資料を掲載。
倭姫命世紀(鎌倉中期)
「奉天照太神於笠縫邑遷之于旦波與佐宮今加佐所在内宮即其處居焉四年又遷于伊勢五十鈴川上號曰内宮、事在垂仁天皇二十五年機歴十代至雄略天皇祀豊受皇于伊勢所謂外宮是也云々」(第十代崇神天皇から第十一代垂仁天皇の時、天照大神は加佐與佐宮に鎮座四年。その後伊勢に遷座。これより下り、豊受大神は、第二十一代雄略天皇の時代に伊勢の外宮にお祀りされた)
皇大神社(元伊勢内宮皇大神社) 河守上村字内宮山に鎮座
「当社は、第十代崇神天皇の御代大和国笠縫の里から当国(丹後国)吉依宮(吉佐宮)へ御遷幸の折、この地にも暫く御鎮座あらせられ、第十一代垂仁天皇の三十六年今の伊勢五十鈴川の川上に御鎮座あって以来、世俗に此処を元伊勢神宮と称するようになったと古老の口碑にあるが、何等旧記がなく考証の資料を得ることができない。」
豊受大神社 河守上村字天田内小字舟岡に鎮座
「当社は雄略天皇の二十二年天皇親しく天照大神の神講を受け丹波國丹波郡比治の麻奈為に座す豊受大神を伊勢國度会の外宮に遷し奉った時、暫く川守庄天田内の里である船岡山に鎮座ましましたのに起因する由碑に残っている。又世俗の説に加佐郡は元與謝郡(与謝)であって元両大神宮鎮座の跡であるとも云う。」
神社啓蒙(江戸時代初期(寛文年間))
「與謝宮在二丹後国與佐郡川森一所祭神一座」(河守にあり)
和漢三才図曾(江戸時代中期)
「與佐宮在二與謝獅川守一云々」(河守にあり)
丹後細見録・丹後舊事記及・丹後州宮津府志(江戸中後期)
「橋立大明神余社郡天橋立、祭神豊受皇太神宮、崇神天皇三十九年天照皇太神宮を崇め奉る,與佐宮倭姫の垂跡なり」
笑原神社 細川越中守忠輿再建の標札(安土桃山時代)
「丹後州神座郡田辺城外西嶺有笑原神宮焉豊受大神神幸之古跡而所謂為真名井原與謝宮三處之一而此嶺別有天香或藤孝之名焉、祭神天皇即位卅九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙剱月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與謝郡九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉云々」(与佐宮三所の一つ。この地で一年三カ月鎮座の後、天橋立(籠神社)に遷座した。)
以上、「加佐郡誌」「与謝郡誌」より。
丹後国風土記 残欠(1400年代 室町時代中期)
『丹後風土記』の一部であり、京都の北白川家に伝わっていたものを15世紀の末に丹後国一之宮籠神社の社僧・智海が筆写したものという。
田造郷
田造(田辺―現舞鶴市)と名付けられた所以は、往昔 天孫降臨の時に豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)の教えに従って天香語山命(アメノカゴヤマ)と天村雲命(アメノムラクモ)が この国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に天降った。そこで、天村雲命と天道姫命(アメノミチヒメ)は共に大神を祀り、新嘗祭を行いたいと思った。すると、井戸水がたちまち変わって神饌を炊くことができなくなった。故に泥真名井(ひじのまない)という。
そこで、天道姫命は葦を以って大神の心を占った。故に葦占山という。天道姫命は弓矢を天香語山命に授けて「この矢を3度放ち、その矢の留まった場所には必ず清い土地がある」と詔すると、天香語山命は矢を放って この国の矢原山に到った。そこには青々とした根・枝・葉が生えていたので、矢原(矢原訓屋布)という。よって、この地に神籬を建てて大神を遷し祀り、ここに懇田を定めた。
此処から巽(南東)に3里ばかりのところに霊泉が湧いていたので、天村雲命はその泉の水をそそいで(泥真名井の)荒水を和した。故に真名井と称する。また、その傍らに天吉葛(あまのよさつら=瓢箪)が生えている。その匏(よさ=瓢箪)を以って真名井の水を盛り、神饌を調進して長く大神を奉った。よって、真名井原瓠宮(与佐宮)と称するのである。春・秋には田を耕し、稲種をあまねく四方に蒔くと人民は豊かになった。故にこの地を田造という。(以下、4行虫食)
(人文研究見聞録「丹後国風土記 残欠 現代語訳」より)
上記風土記残欠の内容を追ってゆくと与佐宮は、現在の笑原神社周辺になるようである。







