キリスト教は、人間の原罪を説く。要するに人間は存在そのものが罪であるという認識。
仏教は、現生からの離脱。六道輪廻を繰り返し転生する生物世界の苦界から完全に脱出する方法論をブッダは説いた。
老子は、仏教よりは社会的だが、世間一般や権力世界から隔絶して純粋な精神性の中に自らを置くのを良しとする。
大陸型文明の基礎となるこれらの思想の本質的部分は常に「現世否定」あるいは「現世から隔絶」することによって魂や人間生活を豊かにしようとする試みを基調としている。
人間本来の存在意義は社会から隔絶されなければ得られないという、ある種「人間社会」に対する根本的な絶望が横たわっている。
上記の人々は全て当時の世相や社会状況の中で生きることに絶望したか失望した挙句に到達した思想や価値観を世に問うたが、要するに隔絶しなければ到底人間性など得られるものではないと感じるほどに社会的政治的に過酷であったということの証左でもある。
日本でも仏教が渡来以降は「隔世」「現世離脱」の思想は特に平家物語などの思想に顕著に現れたが、八百万の神々の世界と我々人間社会は渾然一体となっていて、それは「自然界」という大きな器の中に包含されているという意識が高い。
日本では社会性と精神性、あるいは人間社会と個々の魂の共存が成立した極めて稀な世界観を有しながら、なおかつ支那や西洋の思想や価値意識、科学技術を取り入れて世界的にも極めて成功した唯一の文明ではないか。
付記 戴季陶「日本論」(昭和3年刊)を読んで
戦前期、日本に留学した国民党の理論的指導者となった戴季陶によれば、
「日本人の仏教思想は、あらゆる面で中国とは異質なことが指摘できる。日本の仏教は、貴族の間では積極的な犠牲的な精神を多く含んでおり、民間では世俗化された面が多いが、堅苦、枯寂が特色である中国の仏教思想とはまったく相はんする。」
とし、
「日本人の気風を中国人と比べてみて、その違いがもっとも甚だしい点は、日本人はどの面においても、中国人のように清談にふけって一切の責任を負わない風や、六朝人のような軟弱、デカダンの悪風が見られないことである。」(以上「日本論」より)
と語っている。
戴季陶は国民党右派の思想的支柱として国共合作などに反対しつつ自国の政治体制確立に奔走したが、中華人民共和国が成立する直前の1949年2月に他界している。
彼はこの書の中で、自国の優位性を強調しながら日本への素直な感想を述べているが、その後100年ほどたった現在を見た時自国をどう感じるだろうか。
「日本論」は日本の歴史的知識認識に誤りがあったり、神道を小馬鹿にするなど読んでいて問題も多いが、日本について感じた彼らの文化との違いについての感想などは非常に参考になる。
戦前期に書かれたので、現代のような歪んだ政治的反日観がない。しかしここで書かれている内容は現代中国の支配層や知的階層の人々の多くが感じている「日本観」というものを明らかに代弁しているという意味において多いに参考になる書籍である。

