システムをつくりかえるには 日本人的創造力の源泉は何か
世の中に悪弊が蔓延って社会が停滞すると社会の変革が必要になる。
支那では古代から易姓革命というものがあり体制が衰えると別の人間や勢力あるいは民族が現政権を崩壊させて新しい体制ができるがそもそも革命という手段で社会を進展させられるのか。
その回答もやはり「中国4千年(?)」の歴史の中にある。4千年(?)も革命を繰り返してきた結果があのザマだ。
首が変わるだけで何も変わらない。中華人民共和国の実態は未だに近世以前と変わらない。
2020年中国共産党のナンバー2である李克強首相は全人代で中国国内の6億人は月収千元前後だと述べた。千元は円で換算すると18000円程度。年収で20万円程度ということになる。
全人代で言う数字だから実態はもっとひどいだろうし、9億人くらいは実質「奴隷」同様の国民があるということだ。
李克強はこれを何とかしなければならないと叫んだのだが。
9億差し引いても5億以上いるから3-4億はそれよりはマシな中流で残り1億が富裕層(年収1億くらいあるとも)、うち上位数千か数万は超富裕層で資産が数百億以上あるような連中がゴロゴロいる。
いつも思うが中華人民共和国と現代のアメリカ合衆国はよく似ている。米国の社会状況は実質ソフトな中共のようなものだ。
革命やテロリズムの歴史を見ると、そのような政変の後その社会が良くなったと言う事例があまり見られない。世界の歴史を細かく見ればあるかもしれないが、少ないように思われる。
フランス革命にしたところでナポレオンの登場がなければただの「殺戮の場」であっただけかもしれない。その後の欧州の歴史を見れば明らかだが王政の打倒が近代化の必須条件ではないことは英国の歴史が証明している。
結局人間の意識が変わらなければ、物理的に体制を変えても、頭が変わるだけで実質何も変わらないと言うのが人間社会の実情だろう。
人間の意識を変える最も簡単な方法は、
「そんなものくだらない」
「それは馬鹿馬鹿しい」
「何の意味も価値もない」
などど、心の中で切って捨てる。これが一番簡易な方法だ。
異性の趣味が変わるのと同じだ。それまであれほど「あの感覚」に執着していたのに、何かのきっかけで全く興味がなくなる。趣味が変わるとそれまで良いと思っていた自分が馬鹿みたいに感じる。
これが意識改革だが、意識改革というと何かのセミナーみたいになるので使わない。意識の変換とか転換といった方が良いだろう。
1人の意識が変わっても何も変わらないが3-4割の人間の意識が変われば社会は自ずと影響される。中共のような専制独裁主義の国は分からないが日本のような国家であれば可能だろう。
資本主義も同じだ。
今現在の企業家は売上がどれだけ大きくなるか、企業をどれだけ大きくするか。そういうことに執着している。欧米、特に米国の企業などで大企業と言われる企業の大半は私から見れば一種のパラノイアだが、彼らは真剣だろう。中共の富裕層も同じ。
それが最大の価値だと本人達が自覚しているからだろう。
この200-300年の間に西洋で多くの思想やシステムが生み出された。発想の根源には彼らの文明的な柱のようなものがありそれに依っている。
一つにはユダヤキリスト教的な唯一神教の理念だろう。宇宙の仕組みなどで「ビッグバン」というのがあるがあれを誰が発想したのか知らないがユダヤキリスト教的な発想だと思う。
マルクス主義はそれ以上にユダヤキリスト教的で労働や生産あるいは「物」と神を入れ替えただけのようにすら感じる。
今一つにギリシャローマ文明以前のヨーロッパ地域に根ざしていた多神教文明的な柱がある。これは彼らのかなり深いところに眠っているものでルネッサンス以降の彼らの思想や芸術などに「先祖還り的」な要素が加味されている。
ニーチェやユングもそうだ。ワーグナーもそうだがここからナチズムが起こりユダヤ人の迫害に至るというのは彼ら文明圏内の文明の衝突のような感じがするが、あのような手法に至ること自体がどういうわけか「唯一神教的」に見える。
二つの意識が深いところで複雑に絡みあい、それが歪んだ形で結実したものだろう。もっとも西洋世界におけるユダヤ人の迫害の歴史は長い。「キリストを殺したユダヤ人」というところから来るものだが。
もっともキリストもユダヤ人だからキリスト教が伝播して以降の欧州文明は「ユダヤ文明化」したわけだから皮肉な話ではある。
彼らがユダヤキリスト教やあるいはギリシャローマの神々を信仰しているかどうかに関わらず彼らの発想や創造の源泉にこれらがあることから逃れることはできない。
世界史の全てを見ても明らかなように、文明の源泉には全て宗教的な要素が根底にあるからだ。
では日本人は何をどのように発想し創造するのか。
私自身が何かを考えるときには必ず日本の神道あるいは神社と日本人の関わり方、その歴史、日本の社会システムの構造と鎮守の杜のあり方などを観察しながらそれを自らの発想に置き換えるようにしている。
創造の源泉は世界中どこにいても自らが立脚する文明的なファクターから「降りてくる」ものだ。
例えば現在の経済的なシステムについてどう変えていくかを同じ視点から置き換えていくと、
• M&Aの禁止
• 商品単位の企業化
• 大きなプロジェクトや新規プロジェクトはプロジェクト単位で企業体を合流
• 大規模生産は官民の共同出資による大規模工場を共同利用可能
• 新商品などの秘匿技術のあるものは自社工場で生産
• 商品の量産が開始された時点で生産専門の別会社を設立 収益は開発会社はロイヤリティを取得可能だが企業のグループ化は不可
• 海外へ商品生産する場合技術供与とし特許料あるいはロイヤリティのみ受け取り系列あるいはグループ企業とはしない
• 大規模投資が必要な新規技術の開発は官民で共同出資して行うことも可能(そのような仕組みを明確化する)
• 開発専門/生産専門/販売専門を個別に企業化
などのことが頭に流れてくる。要するに物事を一元化に向かわせないという手法だ。力を分散させる。
こういう発想を頭の良い人は体系化できるだろう。
西洋人は理論的思考に優れており物事を理論化したり体系化したりすることが得意である。逆に言うと理にかなわないと納得できず理解しようとしない。しかし、理にかなうということが常に正しいということとは別である。
一方日本人は空間認識というか空間的な把握力が優れているように見える。
種子島に鉄砲が伝来して以来わずかなうちにその構造を理解して鉄砲の量産を開始したが、織田から豊臣政権時代の頃、日本国内の鉄砲の数は当時世界最大であり、スペイン人宣教師は本国に日本を侵略するのは難しいと伝えたという話もある。
幕末から明治にかけての産業製品も早々に構造を理解して自国で生産をはじめるようになった。物事を理論化することはしないが観察眼に優れており物事をよく観察してその本質を感覚的に把握する能力が高いものと考えられる。
発想力や創造力の源泉は身近なところにあると言うことだ。

