人の本質と人格は別だとグルジェフは言う。
通常人は本質と人格を区別できないとも言う。
一般的に見て、人格を本質(自分)だと思っている。
観察するに、人格とは肉体(物質)を維持するための生存本能に根ざす(発する)ものであり、俗に言う自我の肥大と人格の肥大とは関連性がある。
現代人は自我の発達を人間意識の進化だと錯覚しているが、少なくとも本質・魂の進化とほとんど無関係であることは人類の歴史が証明してきた。
一般的に言う「自我の拡大」とは個体としての肉体を維持するために発達したエゴの肥大化だとも言える。
その副産物として物質界は変化あるいは人類社会という枠組みにおいて進化したということは言えるだろう。
一方、これにより人の本質・魂との齟齬が拡大してストレスや葛藤が増大した。これが現代人の病の源泉の主要な要素になっている。
善悪とは人が肉体を伴っている状態において初めて生じる(発達する)価値意識である。
何故なら悪という認識は肉体や物質を損壊したり、他の人や物質などから何某かを奪い去る時に発生するからである。
人が肉体から解放されればそれらの価値観は意味をなさなくなる。善悪という認識は物質(人間・生物を含む)との関わりにおいて始めて芽生える。
人が肉体を伴わない意識のみの世界において「悪」とされるものの意識状態はただそれがそのように存在しているということでしかなくなるだろう。
純粋な意識体の世界において、その意識(善とか悪とかされるものの状態)は永久にそこに留まり続ける。ただそこにそのように存在し続ける。
その時、それは「悪」というより、ある種の未熟で視野の狭い意識状態がそこに存在しているというべきだろう。一方、「善」とはより成熟した、視野の拡大した意識の状態がそこに存在している、と言えるだろう。
従って、肉体を伴わない純粋意識の世界において、我々が通常善悪と呼ぶ意識状態は、未熟か成熟か、視野がより狭いか広いかの違いに置き換わる。
何某かの意識体がなんらかの物質中に封印された時、その意識体は視野を拡大する機会を得る。あるいは成熟するチャンスを得る。
意識体のみの状態にある意識体はそれ自体を変異させる機会が少ない。その必要性も必然性も低いからである。
経験によって変異した意識体は、ブーメラン効果で非物質界全体に何等かの影響を与える。
物質から解放された世界には距離や時間の観念や制約がなく、総体として無条件に相互に関連しあう可能性がある。
特定の意識体の変異は、意識界全体の質を変異させ得る。
結果、変異した総体は再び物質界に影響するだろう。

