「三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか」(宮崎正弘著)という作品を読んでいたら、三島由紀夫の以下のような文章に出会った。
「日本文化は、ともすると、希有の感受性だけをその特質としており、他の民族の文化とは範疇を異にしており、質のうえで何らの共通性を、従ってその共通性の中に生まれる異質性を持たぬのかもしれない」
「どんな宗教的紐帯にも、思想的紐帯にも、完全に緊縛されることなく育ってきた日本文化は、(中略)無思想性、無理念性を特色としている。どんな道徳も美的判断に還元され、思想のために生きるかに見えてもその実おのれの感受性の正確さだけによって生きてきた日本人は、(中略)生活のなかに美学を持ち込み、美学の中へ生活を持ち込んで恬然としてきた」
まったくそうかもしれないと思った。
恬然(てんぜん)とは、恥じることなく平気でいるさま。物事にこだわらず平然としているさま。というような意味。
しかし、さらに自分なりに付け加えるとするならばこうなる。
その感受性や美学の周辺には、神々がただよっており、時折そこへ鋭利な刃物で切り込みが入れられると、何がしかの「魂」が封印されるのである。
その「作業」は全て、風の流れの中で、せせらぎの中で、木々草々や虫たちがさえずるその間隙で起こっている。
それを嗅ぎとり、自らの心中、あるいは魂中に汲み入れる作業を繰り返し行うこと。それは無意識の中で行われ、やがて筋道やら真理のようなものが誰気づくことなくできあがっていく。
それが日本文化の重要な指標かもしれない。その気配を感じとることができるかどうかは、日本人となりうるかどうかの、ひとつの指標でもあるだろう。

