人が何かを理解したり納得したりするには大きく二つのパターンがあるように思える。
まず一つには
真実を突きつけられて理解し納得する
この場合、たとえそれまで自分が考えていたことや信じていたことが突きつけられた真実と違っていても、自分の誤りを修正することができる。
もう一つは、
感情が納得するかしないか
この場合、たとえ真実を突きつけられても、感情が納得できなければ決してそれを受け入れられないか、見ようとしない、無視する。
こういう場合は、例え嘘でも感情が納得できればそれでいいのである。真実は敵になるかもしれない。
こういうことは誰にでもあるが、感情が納得できない真実を理解させるために、ひたすら真実を突きつけ続けても逆効果かもしれない。
癒し
というのがあるが、癒しを欲する人は永遠に癒され続けることを求める傾向があるように思える。
もっと癒しを!愛を!
癒しというのは永久に癒しでしかなく、癒しによって何かが完全に満たされ、物事が完結して、次に行くということがあるのかどうか。
その問題が大きく深ければ深いほど解決にはとてつもない時間を必要とする。
感情が納得することをのみ求める者は、ただ求めるに任せる以外ないのかもしれない。
炎が尽きるまで
突発的な不可抗力によるショック療法というものがあるかもしれない。それどころではないという状況を作り出すことだ。
しかし、それを人為的意図的に作り出すことは難しいだろう。
頭を空っぽにする行為
自らそれをするというのは求道的人間でないと難しいだろう。
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投稿に対するコメント:
ひとつめのパターンはかなり稀でしょうね。大概は自分の主張と対立する意見を聞くと反発します。自分の意見が否定された=自分が否定された、と感じるからです。それが正論であるほど、突きつけられた者は逆上します。もはや正しいかどうか考える余裕などなく、ひたすら自分の正しさを証明しようという想いに支配されます。これは動物の防衛本能に近い。頭で理解していても抗えないものです。その時は逆上しても時間の経過とともに冷静さを取り戻し、自ら検証を行って納得に至る。これが一般的なパターンだと思います。人は他者から押し付けられることを好まない。自ら望んだものだけを受け入れる。普段から「答え」を探している毛利さんのような人は、反対意見の中からも 何かを見つけようとしているから、異論も聴くことができるのでしょう。
結局人間は感情で大概のものを決めているのかもしれない。厄介ですね。
予断なく話を聴こうと思っていても、やはり認知バイアスから完全に自由になることはできない、といつも思います。結局のところ、人は見たいものだけを見て聴きたいことだけを聴く。そういう風に出来ているんでしょう。だからこそ、常に意識していないと、自ら「思考の檻」の中に閉じ込められることになる、と思います。

