真実を突きつけても、それを受け入れるかどうかは感情が決める。
感情が受け入れるか受け入れないか。
これが人間の現実であるならば。
それが人間の本質であるとすれば、大概、地球は感情で動いてるということだ。
頭の中で想像してみる。
赤ちゃんが泣いている時の顔
子供が駄々をこねている時の様子
犬が吠えている時の様子
あれと同じだと。
これが世界だと。
理屈じゃないんだと。
ではどうする。
あやす
なだめる
包み込むような愛をもって接する
優しく穏やかに
母親のように
あるいは怒りの鉄槌をくだすか
泣く子も黙る
父親のように
そうすれば収まるのか。
いやそういう時もあれば全く効果なしということもある。
人間とは結局何なのか?
さらっと流す
全てをあまり真正面から受け止めないことだ。
自分の心から穏やかに。晴れやかに。
私自身を世界とするならば
アンコントロールな人間の感情を治めるには魂を鎮めるしかないだろう
荒れた心を鎮める
それは魂を鎮めるということ
愛でも怒りでも優しさでもなく
鎮魂
鎮魂には全てが含まれている
結局ここに落ち着く
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投稿へのコメント:
自己の意識で生きているというのが勘違いですからね。
個は個にあらず集なり と。
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論理的な思考を行うことができる状態とそうでない状態の違いというものを考えてみたとき、欲求の充足度の違いというものがあるのではないかと。空腹、寝不足の状態で人は精神的に不安定になり、怒りっぽくなり、論理的な思考を受け付けなくなる。これは誰にでも経験があると思います。性欲については「種の保存」に関する欲求なので、「個の保存」に関わる食欲、睡眠欲ほど切迫した状態にはならないのでしょう。つまり自分の生存が脅かされる危険を感じたとき、感情優先の状態になりやすい。先にあげた三つの欲求に加え、比重が大きいのが「承認欲求」です。他の動物にもこれがあるかどうかわかりませんが、先進国といわれる経済レベルにある国においては、他の基礎的欲求は比較的充たされた状況にあるため、この「承認欲求」の重要度が相対的に浮上してきます。社会的動物である人間は、自己の存在が承認されていない状況でも「身の危険」を感じる。集団にとって不要、あるいは有害な存在は群からはじかれ生存ができなくなるという恐怖からなのか……欲求が充足されない「感情優先」状態で、理性、知識、論理といったものは、全て欲求を満たすために動員される。違う方向には働かなくなる。これが人の認知バイアスのメカニズムではないかと。
空腹・寝不足ということでは人は朦朧としますが、人の歴史を見てみた時、これらが何か歴史を大きく動かした。あるいはその人の人生を大きく変貌させた。という事例は少ないですね。
次に性欲ですが、これは恋愛等も含め、これが人の価値観や判断に大きく関わるということは枚挙にいとまがありません。ある状態になると人格が変わることもあるし、ある経験を経て人格や価値観が一変することもあります。次に承認欲求ですが、これもかなり大きい。育った環境やさまざまな環境下における人間関係に関わる経験など。そこで、このような経験や状況下において個々の内面に起こる論理が一体何処からくるのかという問題があります。論理とは個にあらずということだと考えます。極めて平静な状況下で起こる論理や思考、異常時において起こる論理や思考。そしてそれらさまざまな論理や思考や思いの結実として個々が決断するという選択の問題。結果的に起こった経験から総合される価値観の成立に至るまでのプロセス。これらもまた個にあらずと考えます。人は自分が考え判断したと思っている。しかし実際にはそうではない。
自分の周囲にいる生者の思考や思い、自分に関わる先霊やその人が居住するあるいは居住したあるいは先霊が居住した土地に関わる諸霊の意思と思い。それらが総体的に関わっている神々、神霊の意思や意識など。こう行った諸々の要素が個の魂に密接に影響している。本人の意識するとしないとに関わらず。そもそも人の魂はそういうものの総合体であり、総体の一部としての存在であるという。
さまざまな決断や思考をする際に起こって来るもの。一つには過去の自分の経験則のようなもの。これとは別に最終的な判断や選択、あるいは何かの論理を構築する場合において介入するある概念のようなもの。この概念のようなものをよく観察する。それが何処から起こっているのかを。ユングは集合意識と言いましたが、より具体的に言えば、他の意識、意識体の介入があると考える。しかしもっと深く考えて行くと、それは他にあらず。最終的に、自分、個というのは複数の意識や思いの集合体として成立しているんだというように考えられます。従って人と人が交わるということは集合体と集合体の交錯ということになる。この交錯点の向こうに、もう一つ何かあるかもしれませんね。
魂降日記さんの考えが霊的な観点からであるのに対し、ワタシのは肉体的な観点から、という相違でしょうかね。視点が異なる者同士で検討するのは面白いです。

