自分の過去生を振り返るということは時として重要な意味を持つ。
まず過去生というものを信じるか否かという問題があるが、自分に関しては、これはあるとしか言いようがない。
若い頃から、訳もなくヨーロッパへの郷愁があった。小学校時代くらいからそうだったと思う。
映画などでヨーロッパの風景が映し出されると言いようもなく懐かしいような哀しい気分になった。
既視感がすごかった。今自分がいるところ以上に、今まさにそこにいるような感じがした。
一度もヨーロッパへ行ったこともないのに、この顔は東欧系だとかユダヤ系だとかゲルマン系だとかラテン系だとかの顔の区別ができた。
誰にも教えられているわけでもないのに。それは簡単なことであり、当たり前のことのように思えた。
その他諸々。
どうしようもないほどの郷愁を背負って、2000年ごろに初めてヨーロッパへ行き、その後数年間で20カ国ほどを回った。
回って見て感じたこと。
「もうあの頃とは違う。」
そういう感覚だった。自分もまたすでにヨーロッパ人でもなかったのである。当然のことだけれども。
違和感。
時の流れとともに空気感に変化が起きていて、自分の記憶に焼き付いていた「ヨーロッパ的なるもの」は色褪せて見えた。
今回見たヨーロッパは自分が記憶していたものよりははるかに「平和」な世界に思えた。ぼんやりしているようにも感じた。
何かヨーロッパとしての「明瞭さ」が欠けているように思いもした。色褪せていた。
私はあの頃、石畳の上を、戦場を駆け巡っていたからである。
過去生との決別の瞬間
それ以降自分は日本人であるという自覚を強め、日本文明の重要性に気づき今日に至っている。
過去生の記憶を辿る旅路。自らの歴史を紐解く作業。これは結果的に無意識に行なっていたものである。後になって「そういうことだったのか」と気づく。
過去生と言わず「過去」と、いい意味で決別することは重要なことだと思う。
さもなくば、いつまでも人生を「郷愁」の中でしか生きることができず、今の自分に目が向かないということになりかねない。
後ろに未来はない。
もちろん歴史を学ぶ重要さと、この話は関係ない。人が歴史に学ぶことは必要なことである。
これは記憶にこびりついた「垢」のようなものを取り去ることの重要さについての話である。

