神道は宗教ではないとよく言われる。もちろんそんな言葉を日本人以外の人は信用しないのだが。
神道は宗教を超えた脱宗教、あるいは超越宗教の概念である。
私達日本人は、神道というと、特に「戦後教育の精神」の影響を受け続けた者にとっては、神道とは何か原始的自然崇拝とかアニミズムの一信仰形態であり、前宗教的な「遅れた」宗教的産物、ひどい場合には「その残滓」であるとか言われる。
特に東大とかそういうところの名誉教授みたいな連中(戦後体制に忠実な)ほどそういう論旨を展開して、この国の価値観を破壊し、日本人を無知蒙昧と盲目の世界へと導いた。 しかし古来より、日本人自身、「神道世界」が持つ本質的概念を、世界文明との比較対象の中で客観化する機会はほとんどなかった。
「神道」はいまだ未定義なままであるが、教義と教えがないという理由もあって、日本人はしばしば、
「神道は宗教じゃありませんから」
と何だかよく解りもせず答えてきたのだと言える。
しかし、宗教というものが世界史の中で果たしてきた役割を検証したならば、神道は教義も教えも持ってはいないのに他の「宗教世界」「宗教社会」が目指してきた大きな目的をいとも簡単に達成してしまっている、という意味において、神道は予め既に宗教を超越してしまっているのだと言えるだろう。
ユダヤ、キリスト、イスラムや仏教に至るまで、人間に対してそれらが求める第一の通過点は、「戒律」であり、これにより精神や魂を「神の力で」縛り付けることにより、人が人間社会の中で人間足り得る最低条件を整えてきたのである。 戒律的拘束がなければ、殺し放題、盗み放題、姦り放題の社会は、世界中今でも五万と存在している。当の日本人にはそんな世界の現実が理解できないのである。
有史以来日本人は戒律を強制されることなく、高度な文明を築くに至った。それは日本人が他に優れていたということではなく、神道によって育まれた霊力と地力に支えられた文明の力の恩恵を「無意識のうちに」受けることができたからに他ならない。
神道とは何か? それは、
「祀る」
ということである。 日本人はこの言葉にもっと注力しなくてはならない。日本人であればこの言葉を聞き、少し考え、調べれば自ずとその真意を理解できるはずである。
モーセは神により十戒を授けられた。これに従わぬ者には恐るべき災厄が神により与えられるであろうとの啓示と共に。 しかし、日本人に十戒は必要なかったと言える。それは既に歴史が証明している。
「祀らぬもの」は大いなる力によって「拘束される」より他ないのである。
「モーセの十戒」
わたしはあなたの主なる神である。
1 わたしのほかに神があってはならない。
2 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4 あなたの父母を敬え。
5 殺してはならない。
6 姦淫してはならない。
7 盗んではならない。
8 隣人に関して偽証してはならない。
9 隣人の妻を欲してはならない。
10 隣人の財産を欲してはならない。
(写真: 十戒 https://www.discerninghearts.com/より)

