ピューリタンというのは、日本語だと清教徒というが、分かりやすく言えば、教会などの組織宗教のしがらみから脱して、聖書や神と、信仰者個人との、純粋で直接的な関わりに基づいた信仰生活をすることを目指す人々という解釈かと思う。
アメリカの建国に関わった核の部分をなす人々は、これらイギリスの中におけるピューリタンの中でも、さらに純粋に、その道を目指そうとし、イギリス国教会や彼等の所属する組織からすら離脱して、神と自分との純粋な関わりに基づいた信仰生活を実現するために、新大陸を目指した人々である。
アメリカ建国の精神である、自由と平等の概念は、神の下における、平等とか、宗教組織のしがらみからの自由で純粋な信仰生活を実現できる国家であろう。という意味あいが極めて強いはずだ。
日本人は、世界状況とか社会的価値意識とか、欧米からの思想などを見る時、宗教的な、あるいは文化文明的なファクターを考慮せずに、言葉や仕組みを輸入するので、こういった言葉の裏側にある、真意や本質を見落としがちである。
アメリカという国家は、このような極めて純粋なキリスト教信者が造った国であるということを、我々は決して忘れるべきではないだろう。
いくら人々の信仰心が薄れたとしても、価値意識、生活基盤の中にこれらキリスト教的な「生き方」が溶け込んでいる。そういうものをぶち壊されると感じた時、そこにいる人間が「ブチ切れる」のは当たり前のことだ。
その土地に入ったら、その土地や文化文明に対するリスペクトの気持ちを持つこと。それを忘れてはならない。
欧州では、キリスト教信仰は、かなり薄まっているというが、アメリカは今でも欧州よりはるかに信仰心の強い人が多い。よく言われることだが、アメリカには、州によっては、日曜日の教会礼拝に行かないものは、死刑という法律があるという。実際に執行されたことはないようだが。
アーミッシュやモルモン教徒などの非常に極端な信仰生活を求める社会も地域によっては存在している。
自由も、平等という言葉も、本来は、キリスト教信仰に根差して、作られ、使われる言葉である。
キリスト教信者の自由と平等、イスラム教徒の自由と平等、ユダヤ教徒の自由と平等は、本質的には異質なものであるはずだ。こう言った「厳しい」感覚は、日本人には理解しづらい。
字義通り、辞書通りの平等や自由を叫んでみたところで、聖書には異教徒に対する、厳しい断罪、否定、などが記載されているのである。聖書が改定でもされない限り、その現実を避けて通ることはできないだろう。
アメリカにおける、差別の問題は、黒人を奴隷としてアフリカから連れてきたことに起因する部分と、現在起こっている、イスラムやユダヤやキリスト教社会間に起因するものとでは事情が違う。後者は差別という以上に文明的な対立や確執に起因している。それが差別問題にすり替わっている。
彼らアメリカ人が、日夜病的なまでに、差別問題に執着するのは、そういうことを四六時中叫んでいないと、水面下にある、さまざまな対立が一気にあふれ出るからである。日本とは事情が相当に違う。
しかし、日本人である私に言わせれば、
「その土地にはその土地なりの価値観や文化文明に根差した社会が存在する。日本人には、昔から、その土地にはその土地を治める神々や霊魂がいて、その神々や霊魂が、その土地や、その土地に住む人々を守っているのだと考えてきた。だから、日本人は昔から新しい土地にやってきた時には、まず、その土地の神々と霊魂に感謝の気持ちを捧げ、どうかよろしくお願いいたします。とご挨拶に伺うものだ。これこそが、人がその土地で生きていく上で最も大切なことのひとつである。それは個人の信仰とは無関係に存在すべきものだ。」
そう考える。
「郷に入れば郷に従え」
これは日本人の智慧である。
こういう考え方は、アジアを含め、日本人以外にはあまり見受けられない。という以上にこういう感覚を理解できない人々が世界の大半である。
こういう価値意識が世界に弘まれば、世界は今よりははるかに安定するはずである。

