昨日、お知り合いの方とFacebook上でお話をしていたら、弥生縄文と天津神国津神の話になった。
常識的には弥生=天津神、縄文=国津神という認識になっているような気がする。
しかし、自分の感覚としてこれがどうもしっくりこない。理由はわからない。
これについて考えてみる。
まず、古神道を起源とする神道というものは、これはやはり天からの授かりものであるということで間違いないと私は思っている。
例えば、ユダヤの失われた十支族を調査するユダヤ人のラビがいる。彼らは世界中にあるそれと思しき種族や民族をリサーチしているのだが、日本も調査対象らしい。
その彼らが最も注目するのは日本の縄文文明だという。
はっきりとは明言できないが、私の感覚としては、縄文弥生という歴史的括りと、天津神国津神という日本の神話的な括りを同化しない方が良いのではないか。
全く違う世界であるように感じている。
それから、奇妙に思うのだが、縄文と弥生が別の人種であるかのように言われているがこれもおかしい。
狩猟から農耕へ食の主流が移行することと、種族が変わることはイコールではない。
よく骨格の話になるけれども、江戸時代まで日本人はほぼ牛豚は食わなかった。だからと言って江戸時代人と明治時代人で種族が違うとは言わないであろう。
明治時代くらいまでの日本人の身長は150cm前後である。増上寺の徳川将軍の墓所を発掘した記録を見たことがあるが、ある将軍の身長は147cmとかその辺りであったとあり、驚いた記憶がある。
食生活が変化すれば、わずか数代あるいは、5-6代でも骨格は変わるだろう。
縄文人と弥生人が全く違う種族であるかのように言うのは、どのような根拠で言っているのか知らないが、私には解せない。
もちろん、アイヌとか隼人熊襲などの人々と、それ以外のルーツの人々において、日本の土地に根付いた時期にづれがあるかもしれない。(しかし、これとて何とも言えないのだが)
飛鳥時代から平安時代にかけてかなり多くの渡来系帰化人が日本に入り、主として近畿地方に根付いたことは事実である。
律令制度など種々の政治行政制度を積極的に取り入れようとした当時の日本人が大陸からの渡来民を積極的に受け入れたことによることが大きいと思う。
この時期の帰化人の比率は実に30%に達したと言う。ただし、これは当時の記録上であるので日本の総人口の比率ではないかもしれない。
しかし、実はこの時代、日本は想像以上の、もしかすると世界の中でも、かなり進んだ移民社会であったと言えるだろう。現代の欧州でも移民率30%というのは相当な数字になるはずである。
これらの事実は桓武天皇の子 嵯峨天皇編纂の新撰姓氏録に詳しい。
こういった歴史的事実と、弥生時代の話が混同されているのではないかと私は思っている。
また当時、多くの渡来人が様々な説を説いたらしい。自分は天皇と繋がりがあるとか、天皇家は大陸からきたとか。
それは、自分たちの地位や泊付を目的としたものであった。このことを危惧した天皇が先述の新撰姓氏録編纂を指示したということは「神皇正統記」に記載されている。
よく言われるのは弥生人は大陸経由の中華朝鮮系の稲作文明を持った人が大量に日本へ移住してきたと言うものだが、私は絶対に嘘だと思う。
もしそのような事実があれば必ず歴史的事実としての記録が残っているはずである。
渡来人の記録というものは、新撰姓氏録もそうだが、先日書いた高句麗の王子亡命の記録など、かなりはっきりと「どこそこから渡来した」という記録が残っているからである。
このように考えて行くと、弥生=中国大陸からの稲作渡来民という説はおかしいし、ましてや天津神=弥生人=大陸系東アジア人というに至っては完全な誤りである。
文明的に見ても東アジア的な感性が匂い始めるのは明らかに、飛鳥時代以降であってそれ以前は全く違うと考えるべきであろう。
では一体天津神 国津神とは何なのか、あるいは何者かという話にはなるのだろうが。

